水城跡(読み)みずきあと

日本歴史地名大系 「水城跡」の解説

水城跡
みずきあと

太宰府市の西部、福岡平野から筑紫ちくし野へと連なる平野(二日市地峡・筑紫地峡)が最も狭小な所を遮断するように築かれた全長約一・二キロ、高さ約一〇メートル、基底部幅約八〇メートルの人工の大堤。現在水城本堤は太宰府市水城・国分こくぶ吉松よしまつ地区、大野城市下大利しもおおり地区にわたり、小水城しようみずきとよばれる関連施設がある同市上大利地区、春日市下白水しもしろうず・上白水地区を含め国特別史跡に指定されている。

「日本書紀」天智天皇三年(六六四)是歳条に「対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等に、防と烽とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名けて水城と曰ふ」とみえる。防(防人)や烽の設置とともに記されていることから、前年の白村江の戦の敗戦後の防衛強化のために築造されたと推定される。水城の西側丘陵に存在する数ヵ所の谷にも土塁が築かれており、大野城市上大利、春日市大土居おおどい天神山てんじんやまなどの土塁は小水城とされている。「続日本紀」天平神護元年(七六五)三月一〇日条に「大宰大弐従四位下佐伯宿禰今毛人為築怡土城専知官。少弐従五位下采女朝臣浄庭為修理水城専知官」とあって、怡土いと(現前原市)築城と同時に水城の修理が行われたことが知られるが、こうした動きは八世紀半ばの新羅との関係悪化に対応して大宰府の防衛強化が図られたものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「水城跡」の解説

みずきあと【水城跡】


福岡県太宰府(だざいふ)市水城・国分、春日市昇町ほか、大野城市下大利ほかにまたがる古代の城跡。663年(天智天皇2)、百済(くだら)復興を支援した大和王権朝鮮に出兵し、白村江(はくすきのえ)で唐・新羅(しらぎ)の連合軍と戦い、大敗。中大兄皇子は、唐・新羅の大宰府侵攻を想定して長大な防衛線「水城」を築かせた。亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)が建設を指揮し、土塁と水濠が東の四王寺山と西の脊振(せふり)山地をつなぐように築かれた。1921年(大正10)に国の史跡に、1953年(昭和28)には特別史跡に指定された。その後も指定範囲の追加があった。現在でも基底部幅約80m、高さ13mの堂々とした土塁が、緑の木立におおわれ、福岡平野を約1.2kmにわたって横断しているのを見ることができる。土塁の海側に幅60m、深さ4mの水濠が発見されており、「水城」の名は満々と水を湛えたこの水濠に由来する。西鉄天神大牟田線都府楼前(とふろうまえ)駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報