毛利重就(読み)もうり しげなり

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「毛利重就」の解説

毛利重就 もうり-しげなり

1725-1789 江戸時代中期の大名
享保(きょうほう)10年9月10日生まれ。毛利匡広(まさひろ)(元平)の10男。享保20年長門(ながと)(山口県)府中藩主8代となるが,毛利宗広死去で寛延4年(1751)宗家をつぎ,長門萩(はぎ)藩主毛利家7代。撫育方(ぶいくかた)を新設し,宝暦検地による増収を別途会計で運用。干拓,塩田開発など殖産興業につとめた。藩中興の名君とされる。寛政元年10月7日死去。65歳。初名は匡敬(まさよし)。名はのち「しげたか」とよんだ。

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防府市歴史用語集 「毛利重就」の解説

毛利重就

 萩藩7代藩主で、借金のふくれあがった財政を立て直すために努力しました。長府[ちょうふ]藩主の子に生まれ、藩主になる予定ではなかったのですが、藩主をしていた兄が亡くなり、その子も病弱だったため、予定外に長府藩主になります。その後、萩藩主・毛利宗広[もうりむねひろ]が亡くなり、後継ぎもいなかったため、萩藩主になりました。萩藩主になった後は検地けんち]によって、年貢の取れる田畑を増やし、増えた収入で撫育方[ぶいくかた]という基金を作り、干拓や塩田の開発や中関の整備などを行いました。

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