正興寺跡(読み)しようこうじあと

日本歴史地名大系 「正興寺跡」の解説

正興寺跡
しようこうじあと

[現在地名]隼人町内

鹿児島神宮から宮内原みやうちばる水路に沿って東、国分平野北端にあった。鹿児島神宮の三本地所の一つで霊鷲山と号し、臨済宗本尊釈迦如来創建は永仁年間(一二九三―九九)勧請開山は仏智円応、開基は貞和二年(一三四六)没の二世坦然(三国名勝図会)。「蔭涼軒日録」文明一八年(一四八六)六月一一日条には、徳純首座が大隅正興寺入院、書立などを持って訪れたことがみえる。

正興寺跡
しようこうじあと

[現在地名]南国市前浜

小字中屋敷なかやしきにあった。「南路志」によれば南光山現智蔵院と号し、真言宗。山城醍醐報恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来開山は良秀。開基の年は不詳であるが、応永三年(一三九六)二月九日付の田村下庄沙汰人連署証状案(蠧簡集拾遺)に「田村下庄内正興寺院主職并供田事(中略)右、件供田者、本寄進状康安元年□□虫六月歟廿四日大塩之時、雖令紛失(以下略)」とみえ、康安元年(一三六一)には存在したことがわかる。

「南路志」によれば、もと下田しもた村の大安寺だいあんじという所にあったが、長宗我部元親浦戸うらど(現高知市)に居城した頃、元親の御殿として現在地へ移転された。

正興寺跡
しようこうじあと

[現在地名]佐々町神田免

神田こうだにあった臨済宗寺院の跡。正応三年(一二九〇)黙堂が当地に草庵を結び、近郷の信仰を集めていたが、佐々氏により堂舎・田畑の寄進があり、正興寺として創立されたと伝える。山号は大平山という。明応九年(一五〇〇)松浦弘定が大檀那となって檀家の繁盛、寺院安泰を祈願して木造釈迦如来坐像を寄進している。仏師は吉安(像内墨書銘文)。宝永四年(一七〇七)・天保三年(一八三二)に修繕を加えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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