正法寺跡(読み)しようほうじあと

日本歴史地名大系 「正法寺跡」の解説

正法寺跡
しようほうじあと

小岱しようだい山系観音かんのん(四七三メートル)山頂が寺跡といわれ、礎石群があって小堂中に石造観音が祀られている。山号は筒嶽山。建久六年(一一九五)南都・北嶺修学を終えて帰国した俊が、一伽藍を建立して正法寺と号し、精力的に密法灌頂や菩薩戒を授け、常に五〇人もの僧が随従し、いったん死んだ女性を蘇生させるなどの法力を現したという(泉涌寺不可棄法師伝)。俊は同一〇年入宋し、覚俊がその後を継いだ。覚俊は建永二年(一二〇七)玉名庄預所代某の命を受け、石貫いしぬき山内に大平野寺院を建てている(同年九月九日「預所代藤原某下文」広福寺文書など)

正法寺跡
しようぼうじあと

[現在地名]岐阜市薬師町

霊楽山と号し、廃寺となった時期は確定できないが、江戸時代の下川手しもかわて村域に存在した。創建について貞和年中(一三四五―五〇)とする説と、文和二年(一三五三)四月とする説がある。美濃国守護土岐頼康は長森ながもりから革手かわて(川手)に移って革手城を築いたとされるが、その北に土岐氏の氏寺として建立されたという。開山には禅宗法燈派の無本覚心の法嗣嫩桂正栄が迎えられた。二代目には信仲自敬、次いで懶雲・総亀寿兆らが、さらに総亀の弟子で美濃国守護代斎藤利国(妙純)の弟春岳(蘭)寿崇も入住している(「蔭涼軒日録」など)

正法寺跡
しようぼうじあと

[現在地名]豊岡市山王町

円山まるやま川の西岸、豊岡盆地を南北に二分する丘陵の北端部にあった真言宗寺院。延文元年(一三五六)一二月日付の伊達真信軍忠状(伊達家文書)に「木崎性法寺」がみえ、当寺のことと思われる。「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)九月二日条には、播州を放棄して帰国した但馬守護山名政豊が子俊豊をかつぐ国人に背かれ、「正法寺云寺」にいるとしている。丘陵の現状も南北朝時代から戦国末期に至る山城遺構を残している。康暦元年(一三七九)九月、小田井おだい大明神(現小田井県神社)の供僧の一として「祈祷の忠節致す」旨言上したと伝え(小田井県神社調書)、年未詳三月二六日の小田井神主に宛てた山名祐豊書状(小田井大社文書)には舞会当番に正法寺の名がみえ、文禄二年(一五九三)五月一二日付の正法寺支配一件之覚(河本家文書)には境内支配が小田井神主へ預けられたとある。

正法寺跡
しようほうじあと

[現在地名]八代市西宮町

階下かいげにあり、現在釈迦堂がある。「国誌」に「堺外村ニアリ、旧ハ南都西大寺ノ末寺律宗或説天台ノ伽藍地也ト云、開基年代不分明」とあり、天正一〇年(一五八二)頃には菊池隆秀次男覚恵が住持し、寺地も四町四方にわたっていたが、小西行長によって破却されたという。「八代日記」天文五年(一五三六)二月一八日条に「正法寺ニおゐて義宗、長唯花見の御遊」とみえ、同一二年三月五日、同一五年四月四日相良氏は千部経のうちそれぞれ三〇〇部・一〇〇部を当寺に奉納している。同一六年一〇月二三日、相良晴広は祐帆遊行上人を迎えて連歌の会を催した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報