橋詰村(読み)はしづめむら

日本歴史地名大系 「橋詰村」の解説

橋詰村
はしづめむら

[現在地名]白鳥町ろく

野添のぞえ村の東、長良川支流牛道うしみち川の上流左岸段丘上に立地。橋爪村とも書かれた。慶長郷帳に「橋尾村」とあり村高二〇三石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では「はしすめ村」とみえ同高。正保郷帳には橋詰村とみえ、田方七九石余・畑方一二一石余。元禄郷帳では高九七石余。宝暦六年(一七五六)の郡上郡村高覚帳(鈴木文書)では家数一七、うち水呑一。

橋詰村
はしづめむら

[現在地名]長野市七二会なにあい 橋詰

陣場平じんばだいら山の南山腹の村。

慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「五百拾五石七升四合 橋詰村」とあるのを初見とする。中世は春日氏の領する所であったという(七二会村史)元禄の松城領高辻帳の添目録(大日方文書)に、枝村として平出ひらいで村・清水しみず村・市場いちば村・地蔵堂じぞうどう村・田中たなか村・苦桃にがもも村・大窪おおくぼ村・小瀬場こせば村・新地しんち村・木曾国きそくに村の一〇ヵ村をあげていて、いずれも江戸時代初めに成立し、以後も変化がなかった。一村中に村落が多かったため、元禄四年(一六九一)から上組・下組とし、各組に肝煎を置いたが、安永四年(一七七五)から一村一人となった(七二会村誌)

橋詰村
はしづめむら

[現在地名]松之山町橋詰

越道こえどう川右岸に位置し、北は藤内名とないみよう村。近接する藤内名村・猪野名いのみよう村・坂下さかのした村・観音寺かんのんじ村・古戸ふると村を合せて上川手かみかわて地区とよぶ。正保国絵図に高二〇石余。天和三年郷帳では高二七石八斗余、反別田一町八反余・畑屋敷七反余で、家数九。安永九年(一七八〇)新田検地では高九石六斗余。天和三年(一六八三)の松野山高覚帳(関谷哲郎氏蔵)では青苧畑三反一畝を記す。

橋詰村
はしづめむら

[現在地名]気高町睦逢むつお

新宮しんぐう村の南、逢坂おうさか谷中央部西方の山麓に位置する。南は山宮やまのみや村。天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)の社家肥塚家の檀那村付帳に「はしつめ一ゑん」とみえ、また当地の宿ははした三郎左衛門方であった。藩政期の拝領高は二四九石余、本免は五ツ。藪役銀五匁四分が課せられ(藩史)、山根氏・永見氏・永井氏の給地があった(給人所付帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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