橋村(読み)ならはしむら

日本歴史地名大系 「橋村」の解説

橋村
ならはしむら

[現在地名]平田町楢橋

山楯興屋やまたてこうや村の南にあり、南は相沢あいさわ川を境に石名坂いしなざか(現松山町)。枝郷に新井山にいやま村があった。奈良時代から平安時代にかけての新山にいやまB窯跡、鎌倉時代から室町時代にかけての新山経塚がある。東側山上にある楢橋館跡からは庄内平野を一望でき、石黒家記(飽海郡誌)に「楢橋百貫」とあるが館主は不詳。「筆濃余理」に館跡に安倍貞任の石塔と、永徳二年(一三八二)年号のある阿曾右馬頭の墳墓があったという伝えが記される。同書明治一〇年(一八七七)付記によれば当村阿曾氏の肥塚のそばから中国の古銭が九〇貫文出土し、阿曾氏は館主の一門といわれていたという。


橋村
けぬきばしむら

[現在地名]鶴岡市大淀川

大淀川村北西にあり、東を湯尻ゆじり川が流れる。十五里じゆうごりはら古戦場の一部にあたるとみられ、戦死者の碑があったといわれる。元和八年(一六二二)酒井氏知行目録に村名がみえ、高二四六石余。寛永元年庄内高辻帳では田川郡に属し、高九七石余。


橋村
よしはしむら

[現在地名]庄和町芦橋

木崎きさき村の南西に位置する。寛永(一六二四―四四)頃に開かれ、慶安三年(一六五〇)に芦橋新田、延宝三年(一六七五)に芦橋村と称したという(郡村誌)。享保一一年(一七二六)の江戸川通川除出入裁許請書(土生津家文書)によれば、幕府領のほか旗本朝比奈・能勢・酒井・松井・武島・久野六氏の相給となっている。文化元年(一八〇四)の関宿領・庄内領惣新田組村高地頭姓名書上帳控(石川家文書)では三卿の一橋領七四石余、駿河国田中藩領一九八石のほか旗本酒井領一〇四石余・同松井領一〇〇石余・同武島領四九石余・同能勢領三九石余・同久野領三二石余となっている。


橋村
ひばしむら

[現在地名]下妻市樋橋

小貝こかい川右岸にあり、北は肘谷ひじや村。元禄郷帳には火橋村とあり、村高四〇四石余。幕末は旗本服部氏領二三八石余、六郷遠山・大河原各氏領各五三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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