横浜浦(読み)よこはまうら

日本歴史地名大系 「横浜浦」の解説

横浜浦
よこはまうら

[現在地名]敦賀市横浜

ひがし浦一〇ヵ浦の一。南は杉津すいづ浦、北は大比田おおひだ浦、東は山を負い西は敦賀湾。明徳五年(一三九四)二月日付の左近将監棟忠田地寄進状(善妙寺文書)に「横浜」、文明四年(一四七二)一一月一六日付の朝倉景冬奉書(平松家文書)に「横浜夏堂保」とみえる。

慶長三年(一五九八)六月の横浜浦検地帳(片山家文書)によれば、田畠二二町七反余、分米二七八石三斗余、うち田方一五町一反余・二一八石余、畠方七町六反余・四一石、ほかに居屋敷三反余・三石九斗余、桑畠八反・一〇石四斗、小物成として、山手銭一貫四六文(一石余)、薪代四貫六八六文(四石六斗余)、塩畠御年貢米八石三斗・五反五畝一〇歩分、上畠の石盛八斗代、桑畠は一石三斗代である。

横浜浦
よこはまうら

[現在地名]西区横浜一―三丁目

徳永とくなが村の北部、今津いまづ湾と入海に面する浦。「よこばま」ともよばれた。横浜には慶長期(一五九六―一六一五)に集落ができたといい(続風土記)、浦として把握されたのは近世初期と推定されるが、慶長一〇年八月二五日の黒田長政掟書(新訂黒田家譜)には記載されない。福岡へ米・薪・材木などを回漕する湊で(続風土記)怡土いと志摩しま両郡の年貢米を集め、福岡城下のなが蔵へ回漕する積立所が置かれた。積立所に収納される年貢は六万俵に及んだ。正徳期(一七一一―一六)には大坂への年貢米積出しが始まったとされる(済民草書)。享保九年(一七二四)には前原まえばる宿の商人がここに蔵を建て大坂への年貢米直送を計画したが、横浜浦の住民は生業を失うとしてこれに反対、福岡藩の裁定により浦中として蔵を買取った。

横浜浦
よこはまうら

[現在地名]由良町里

由良川河口にある。東はさと村。北西江駒えのこま浦、南西阿戸あと村。近世初期に里村より枝郷として分村。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」には「里村二ケ村」とあり、明細は本村里村と別記される。それによると村高二六六石余、家数一一三、人数四五二、牛一三、馬二。家数の内訳は本役三三、半役三〇、無役二八、舟大工二、桶屋二、庄屋・年寄・ありき各一など。当地は浦ではあるが漁村ではなく、荷物舟の基地であった。舟一七艘はすべて五端帆から六端帆の荷物舟で、漁船はもたないが、この荷物舟は由良地方で最も多く、横浜浦は港町として由良湾で中核的機能をもっていた。本村里村より家数・人数ともに多いのはそのためと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報