横山城跡(読み)よこやまじようあと

日本歴史地名大系 「横山城跡」の解説

横山城跡
よこやまじようあと

[現在地名]岩国市横山三丁目

岩国城下西北にある城山しろやまの北端部、標高二〇〇メートルに位置し、にしき川が東麓を北から南に半周し要害の地を形成する。平常の居館ではなく、北方一里ばかりにある周防安芸の国境の備えとして、吉川広家が慶長八―一三年(一六〇三―〇八)に築城した。地元では横山の城・横山城というが、一般には岩国城といわれる。

城郭は方五〇メートル余の本丸を中心に、西南の二の丸、北東の北の丸、二の丸の先の尾首おくび、本丸西下方の水の手、北の丸の先の尾崎と、合わせて六区画よりなる。

横山城跡
よこやまじようあと

[現在地名]長浜市石田町、坂田郡山東町朝日など

横山の北部山中に築かれた山城で、京極氏の支城として浅井氏が築構。広義には姉川の合戦時に織田信長が布陣した横山北端のたつはな砦を含めて称した。享禄二年(一五二九)一二月八日の赤尾氏中間彦四郎等連署書状(大原観音寺文書)に赤尾氏十人衆が「しようないのしようはいの儀ニ付て、せうせうへ被仰付」とあるのは当城のこととし、浅井氏に属した赤尾氏が守将であったとされる。年未詳四月四日の浅井井演ほか連署書状(同文書)では横山城麓の山林(観音寺領林とみられる)につき無断立入伐採者があれば注進するよう申送っており、浅井氏支城であった。

横山城跡
よこやまじようあと

[現在地名]北条市麓

ふもと村の東の字横山にあった中世の山城。「伊予国風早郡地誌」に「横山城跡東西拾間南北四拾間村ノ東方字横山ニアリ」と記され、「伊予古蹟志」に「有故城横山建武中河野通武山城居也」とみえる。通武は河野通有の弟通泰を祖とする南氏の二代目。

城は本丸・出丸・馬場を有し、山頂を削平して柱穴を岩盤に穿って築城したとされ、県指定史跡。この城は善応寺ぜんおうじの側面防御の役割をもち、五明ごみよう(現松山市)経由で湯築ゆづき(現松山市)とも連絡できる要地にあった。

横山城跡
よこやまじようあと

[現在地名]三川町横山

横山の中央、あか川右岸の段丘上に位置する中世の平城(館)。本丸の規模は東西約四〇間・南北五〇間余、大手は西に開き、南と北に虎口があり、堀・土塁をめぐらしていた。大手脇の角堀をます堀と称し、小さな中島があった。西・南・北三方に二、三の郭があり、南の郭中には泉蔵せんぞう寺が位置する(筆濃余理)。赤川に近く、北・東は湿地帯となっている要害の地で、赤川水運の監視、大浦おおら(現鶴岡市)の北方擁護として重要な地点であった。

横山城跡
よこやまじようあと

[現在地名]長野市長野 城山

善光ぜんこう寺を隔てた東二〇〇余メートルの地にある平山城。現在城山じようやまと称しているが、横山城また善光寺横山城といった。善光寺平が一望できる景勝の地で、戦乱にしばしば利用された。初見は、至徳四年(一三八七)九月の市河頼房軍忠状(市河文書)に、「当国信州凶徒村上中務大輔入道・小笠原信濃入道・高梨薩摩守・長沼太郎以下輩至徳四月廿八日引率数多勢、於善光寺(挙)義兵(中略)去八月廿七日於善光寺横山、依村上馳向、及致合戦間云々」とあり、同年九月一五日の信濃守護斯波義将の市河甲斐守宛感状(同文書)に「於横山合戦之時被致軍忠之由」とあって、南北朝時代に構築が行われたもののようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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