標葉郡(読み)しねはぐん

日本歴史地名大系 「標葉郡」の解説

標葉郡
しねはぐん

椎葉とも書き、浜通り中央部を占める。東は太平洋に面し、南は楢葉ならは郡、西は田村郡安達郡、北は行方なめかた郡に接する。北から順に請戸うけど川・高瀬たかせ川・前田まえだ川・くま川が東流する。海食崖が切れ、海岸平野が発達する。現在の双葉郡大熊おおくま町・双葉町・浪江なみえ町・葛尾かつらお村にあたる。

〔古代〕

「国造本紀」に染葉国造とある。「和名抄」に「志波」と訓を付すが、志と波の間に脱字がある。「続日本紀」養老二年(七一八)五月二日条に、陸奥国の石城いわき・標葉・行方・宇太うだ曰理わたりおよび常陸国の菊多きくたの六郡で石城国に昇格するとあるが、一〇年足らずで陸奥国に復帰する。神護景雲三年(七六九)三月一三日「標葉郡人正六位上丈部賀例努等十人」が阿倍陸奥臣の姓を賜っている(同書)。標葉郡領であろう。承和一五年(八四八)五月一三日「標葉郡擬少領陸奥標葉臣高生」が阿倍陸奥臣の姓を賜っている(続日本後紀)。高生は賀例努の後裔であろう。年不詳の多賀城漆紙文書に「書生宗何(部) 標(葉)」とある。宗何部某は標葉郡衙の書生(郡司の部下職員)らしい。標葉郡衙跡は現双葉町郡山こおりやま五番ごばんどううえにあり、掘立柱建物跡一〇棟のほか基壇や礎石をもつ建物跡が検出され、古瓦・土師器須恵器・瓦塔・漆紙などが出土している。現浪江北幾世橋の堂きたきよはしのどうもり古墳は全長五一・一メートル、同棚塩の狐塚たなしおのきつねづか古墳は五二・五メートルの、ともに前方後円墳。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報