楽巌寺城跡(読み)がくがんじじようあと

日本歴史地名大系 「楽巌寺城跡」の解説

楽巌寺城跡
がくがんじじようあと

[現在地名]小諸市大久保

大久保おおくぼ村の西部布引釈尊しやくそん寺の西方四方を嶮峻な岩壁に囲まれた山頂平地にあり、わずかに南方御牧原みまきがはらに通じる。現在は畑となって、ほとんど旧状をとどめない。

ここに拠った楽巌寺(額岩寺)氏は、戦国時代佐久衆とよばれた地侍の一で、天文九年(一五四〇)には海尻うみじり(現南佐久郡南牧村海尻)の地侍とともに、武田氏に落ちた海尻城の奪回を企て(甲陽軍鑑)村上義清に味方したが、「高白斎記」には、天文一七年九月「廿六戊戌ノ夜、望月源三郎方ヘ被官衆布引山ヘ忍損シ、両人討ル」、同一八年五月に至って「望月新六致同心、布引ヲ出テ、高白海野口迄帰ル」とあるので、天文一七―一八年に武田氏の攻撃を受けて落城したとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報