極楽寺跡(読み)ごくらくじあと

日本歴史地名大系 「極楽寺跡」の解説

極楽寺跡
ごくらくじあと

京都市伏見区にあった寺。「山城名勝志」に「深草郷内有極楽寺村、今宝塔寺門前也、稲荷与極楽寺村間有大門鐘楼等之名、又宝塔寺西南有瑞光、明暦元年元政上人所創也、此地号薬師堂畑、是極楽寺薬師堂遺址也」とあり、「都花月名所」には「七面山 宝塔寺七面明神の山をいふ、もと此地は昭宣公のいとなみ給ひし極楽寺の旧蹟也」とある。近世には極楽寺村の名もあったが、旧跡はこの村一帯のかなり広い地域を占めており、七面しちめん山から深草宝塔寺山ふかくさほうとうじやま町の宝塔寺、深草坊ふかくさぼう町の瑞光ずいこう寺に至る地を占めていたと思われる。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔草創〕

草創について「大鏡」には、仁明天皇せり川行幸の折、愛蔵の琴の爪を落とし、これを殿上童であった藤原基経が念じて捜し出した。その場所に基経が後年伽藍を建てたという。基経にとってこの深草の地は、母(陽成天皇外祖母)の墓があり、南には養父良房建立の貞観じようがん寺があるなど特別の地であった。当時近江比叡山に最澄墓廟たる浄土院があり、浄土堂・礼堂などが建てられていたのを模して、基経が実母の墓の近くに追善をこめて極楽寺を創建したと考えられる。延喜七年(九〇七)六月六日、宇多天皇中宮温子(基経女)が没し、後深草陵に葬られた。後深草陵は「在山城国紀伊郡深草郷、守戸三烟、東限禅定寺、南限大墓、西限極楽寺、北限佐能谷」(延喜式)と西を極楽寺に接していたから、温子も極楽寺の傍らに葬られたのである。

極楽寺跡
ごくらくじあと

石清水八幡宮一の鳥居内頓宮の北にあった寺。仁和三年(八八七)七月一一日の大安寺安宗置文(「極楽寺縁起」宮寺縁事抄)

<資料は省略されています>

とみえ、元慶七年(八八三)本宮初代別当安宗が寺田等を施入して建立した別当寺である。また石清水祠官系図(石清水八幡宮史)安宗の項には「元慶二年下院極楽寺草創始、自同五年正月二日、至于四月八日、造仏始、自同八年三月廿七日、至仁和元年造堂、仁和三年九月十九日入滅」とみえ、「宮寺秘記」(男山考古録)に「極楽寺御本尊、御長三尺三寸座像、金泥仏、深秘之秘仏也、作者当宮最初別当安宗伝灯大法師、元慶五年正月二日作之、至仁和元年五月廿七日仏像云々」とみえる。

当寺は安宗のあと本宮四代別当会俗(安宗甥)に伝えられ、以降その門胤の人をもって門徒長者とし寺務を領掌させることにした(延喜一八年三月一一日「極楽寺別当会俗寺家相承議定文」宮寺縁事抄)。「宮寺縁事抄」によると、その後は八代別当清鑒、一二代別当光誉、一八代別当定清、定清の養子兼清、二三代別当頼清、二五代別当光清、二六代別当任清、二八代別当勝清に相承される。この間定清院主の時、幼少だったので聖清が後見したが、聖清は極楽寺を私領として押領しようとし、極楽寺は「如旧可宮寺所領之由」を言上し(長保二年七月三日「裏書」同書)、宣旨を得た。すなわち宮寺所領であって私領(坊領)に加えられないものとされた。

極楽寺跡
ごくらくじあと

[現在地名]香寺町須加院

須加院すかいんにあった京都東寺末寺の真言宗寺院跡。現在は黄檗宗瑞雲山常福じようふく寺の境内となっている。寛政一一年(一七九九)常福寺裏山の山頂付近から約五〇〇枚の瓦経が出土した。この地は瓦経を埋納した経塚であった。天養元年(一一四四)六月二九日と記された瓦経願文の初行に「南瞻部州大日本国播州極楽寺別当大法師禅慧敬白」とあることから、極楽寺瓦経塚とよばれる。姫路藩主酒井忠道は瓦経を取寄せ拓本をつくらせた。その一部は酒井家から東京国立博物館に寄贈されている。瓦経は明治維新時に姫路城の堀に捨てられたといわれ、所在不明であった。平成七年(一九九五)から同八年にかけて同城三の丸南東隅内堀の堀浚えが行われ、五五枚の瓦経が採取された。

極楽寺跡
ごくらくじあと

[現在地名]富山市北代

北代きただいにあった真言宗寺院。山号は光明山。創寺から廃寺までの寺史はほとんど不明であるが、高野山宝亀ほうき(現和歌山県高野山町)蔵「南山進流密宗声明系譜」奥書に「禅恵 行円房、住高野山惣持院第百十九世検校、延元ママ年九月廿四日在越中北田井極楽寺、声明集付博士畢、東海弟子空舜舎弟也」とある。空舜は立山寺来迎らいごう院空舜とも推測される。また高野山宝亀院蔵「大日経奥疏由来」奥書には文明一九年(一四八七)六月二四日「於越中国新川郡寺田横越観音寺、以北代極楽寺本写之畢 筆者 匡乗」とある。

極楽寺跡
ごくらくじあと

[現在地名]筑波町小田

三村みむら山南麓に位置。三村山清冷院と号し、三村寺ともいう。小田氏の四代時知の創建と伝えられるが、それ以前にさかのぼると考えられる。建長四年(一二五二)一二月四日に真言律宗の僧忍性が小田氏の要請により入寺し、以後一〇年間止住したのち鎌倉の極楽寺へ移った。忍性は極楽寺を真言律宗の道場とし、不殺生界の設定を行った事蹟は小田おだに残る三枚の結界石(うち一枚には建長五年の刻銘がある)によって明らかであり、施薬救済・祈雨などを通じて布教に努め、現新治にいはり郡新治村の東成とうじよう寺、現土浦市の般若はんにや寺、現真壁まかべ郡真壁町の薬王やくおう院に足跡を残している。

寺跡の山中には瓦窯跡があり、付近から正嘉(一二五七―五九)の年号をもった瓦片も出ている。

極楽寺跡
ごくらくじあと

[現在地名]寒川町石田東

栴檀せんだん川右岸、字極楽寺にある白鳳時代の寺院跡。明治年間に多量の瓦とともに奈良時代の錫杖と銅鏡が発見され、昭和四四年(一九六九)圃場整備工事に伴う発掘調査により回廊跡と講堂跡、塔跡とみられる建物遺構が発見された。伽藍配置は四天王寺式であったと推定されている。塔跡とみられる遺構からは方二〇メートル、高さ七七センチの版築の層が見つかっており、錫杖と銅鏡もこの地点から出土したことが確認されている。錫杖は奈良時代の作と考えられ、銅鏡は奈良興福寺金堂須弥壇下から出土した瑞花双鳳八花鏡と同型のもので、塔鎮壇具に用いられたと推定されている。

極楽寺跡
ごくらくじあと

[現在地名]福知山市字今安

今安いまやす小野脇おのわき集落にあったと伝える。創建・廃絶時期とも不詳。「丹波志」は「極楽寺 古跡 今安村内小野脇村 温泉在リシ時薬師ヲ安置(中略)薬師ハ今ハ福智山町西蓮寺ニ在」と記す。薬師堂には小野小町伝説がある。「横山硯」によれば、全身にかさができて衰弱した小野小町が当地へたどりつき、村人の勧めで薬師堂に参籠、薬師如来に願をかけて歌を詠み、付近の温泉に浸って養生したところ快癒したというものである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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