楠葉郷(読み)くすはごう

日本歴史地名大系 「楠葉郷」の解説

楠葉郷
くすはごう

楠葉くずは一帯に位置した中世の郷。中世枚方の諸郷は真木まき葛葉くすは禁野きんや片野かたのなどに分れていたが(「太平記」巻一七山門牒送南都事)、楠葉郷は真木(牧)郷の北に接する古代葛葉(和名抄)以来の郷であった。平安時代ここに摂関家領楠葉牧が設置され、鎌倉初期頃までの楠葉の地名がみえる現存史料の多くは同牧関係のものである。中世楠葉郷の名が初めて出るのは嘉禎四年(一二三八)交野天神社かたのあまつかみのやしろの棟札で、同年の二月から三月にかけて同社の修理造営が行われたとき、「楠葉郷之人等」が毎夜の神楽と宿直を勤めたことが記録される。楠葉郷民は古くから楠葉御園土器の作手(類従雑要抄)、あるいは「楠葉の御牧の土器造り」(梁塵秘抄)として各種土器生産で著名であったが、鎌倉時代にも土器造りをもって業となすといわれていた(徳治二年四月日「杜郷訴状案」宮寺見聞私記)

一方、楠葉郷住人のうちには、近隣の山城石清水いわしみず八幡宮の神人となり、その神事の頭役を勤める者があらわれた。正応二年(一二八九)七月一五日に催された八幡宮寺の菩薩戒会の頭役預人のなかに、伝戒宝樹預の「楠葉郷住人宗貞入道子」、乞戒宝樹預の「楠葉方禰宜散位吉延子」、および楽頭宝樹預の「楠葉郷住人権禰宜前月預和泉太郎子」らがみえるのは、その例である(「菩薩戒会頭役差文」榊葉集)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報