梓峠(読み)あずさとうげ

日本歴史地名大系 「梓峠」の解説

梓峠
あずさとうげ

北川町と大分県南海部みなみあまべ宇目うめ町との境にある峠。標高五七九メートル。寛文年間(一六六一―七三)に起こった国境争論の際、梓峠の山嶺が日向と豊後の国境と定められ、それがそのまま現在の宮崎・大分両県境となっている。この峠越えの道筋は古代の官道が通っていたといわれ、豊後の小野おの(現宇目町)から南下して梓峠を越えて長井ながい駅に至ったとする説がある。天正六年(一五七八)四月豊後の大友義統は島津方に出仕していたあがた(現延岡市)の土持氏攻略のため大軍を率いて梓山を越え夏田なつた(現同上)に陣を構え、門河かどがわ(現門川町)から新名にいな(現日向市)へ打出て土持親成を生捕りにしている。同年八月にも島津攻めのため大友宗麟が当峠を越えて無鹿むしか(現延岡市)に着陣している(以上「日向記」)。また島津軍が豊後に侵入した豊薩戦争の際にも梓口は侵入ルートとなった。天正一四年八月二二日、豊後入りを決意した島津義久は宮崎地頭上井覚兼に対し、朝日あさひ嶽および豊後内端(現宇目町か)に針を伏すことを命じた。これは勝利のための呪詛の一種と思われ、実際に針を伏す使者が派遣されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報