桑弘羊(読み)そうこうよう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「桑弘羊」の意味・わかりやすい解説

桑弘羊
そうこうよう
(?―前80)

中国、前漢の政治家。洛陽(らくよう)の商人の子。13歳で侍中となり、のち大司農中丞(だいしのうちゅうじょう)、大司農(国家財政管理)の職にあって武帝の外征による国家財政の危機を救うために、塩鉄専売制(紀元前119年に始められたものを引き継ぐ)、均輸・平準法(前110年)、酒専売制(前98年)の諸政策を実行する。武帝の死後昭帝の前81年に開かれた塩鉄会議では、塩鉄廃止論を唱える賢良文学(郡国推薦の官吏候補生)に対し、御史大夫(ぎょしたいふ)(副丞相)桑弘羊は、対外防衛費のためには国家が商業に直接関与する経済政策が必要であることを主張し、専売制擁護論の側にたった。しかし前80年、幼い昭帝の下で実権を握っていた大司馬大将軍霍光(かくこう)に謀略の罪で誅(ちゅう)せられた。

[鶴間和幸]

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改訂新版 世界大百科事典 「桑弘羊」の意味・わかりやすい解説

桑弘羊 (そうこうよう)
Sāng Hóng yáng
生没年:?-前80

中国,前漢の政治家。洛陽の商人の子。暗算が巧みで,武帝のとき,わずか13歳で侍中となった。武帝の中期以降,大規模な外征や,災害などによって国家財政が窮乏すると,経済官僚として手腕ふるい,塩鉄の専売や均輸・平準の法などを実行にうつして功績があった。のち御史大夫(副宰相)となり,武帝の遺詔を受けて,大将軍霍光(かくこう)とともに幼い昭帝を補佐したが,やがて功を誇って霍光と反目し,上官桀(じようかんけつ)と謀反を企て誅滅された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桑弘羊」の意味・わかりやすい解説

桑弘羊
そうくよう
Sang Hong-yang; Sang Hung-yang

[生]?
[没]元鳳1(前80)
中国,前漢の武帝,昭帝時代の官僚。父は洛陽の商人。山東の製塩業者の東郭咸陽,南陽の鉄商人孔僅とともに財政難打開の任にあたり,塩鉄の専売,均輸・平準の事を司り (→均輸・平準法 ) ,のち御史大夫となった。しかしこれらの財政策に対する民間の不満は強く,昭帝の始元6 (前 81) 年桑弘羊らは賢良・文学の士 (郡国より推薦の官僚候補者) と宮廷において専売その他民間を苦しめる問題について激論を戦わした。そのときの記録が『塩鉄論』である。一方霍光との反目がつのり,その翌年燕王劉旦,上官桀らと謀反を企てて殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の桑弘羊の言及

【均輸法】より

…いずれも,各地の生産物の円滑な流通,大商人による投機的利益独占排除を目的としている。漢代のそれは武帝の前115年(元鼎2),桑弘羊らの手で郡国に均輸官が置かれ,各地の産物を官が運搬販売した。宋のそれは1069年(熙寧2)王安石の新法の一つとして実施された。…

【平準法】より

…中国,古代の財政策。前漢の前110年(武帝の元封1),桑弘羊の指導下に大司農に平準令の官を設け,数年来施行していた均輸法により官に収納された貨物を全国的に統一管理し,価格の変動を見て騰貴時に売り低落時に買い入れ,価格差を利潤として国庫に吸い上げた。前代の《管子》の軽重法や李悝(りかい)の平糴(へいてき)法につらなり,後の王莽(おうもう)の五均六筦や歴代の常平法に受け継がれた。…

※「桑弘羊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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