栗谷(読み)くりたに

日本歴史地名大系 「栗谷」の解説

栗谷
くりたに

[現在地名]鳥取市栗谷町

久松きゆうしよう山の南東にあり、北西に流下する栗谷川に沿った谷で、江崎下えざきしたの町の学館(尚徳館)横の堀のあった所から、本陣ほんじん(太閤ヶ平)の山足、百谷ももだにに越える峠までの名称。古くは栗谷口といい、御府内七口の一であった。七口とは慶安元年(一六四八)八月定められた追懸者請取口の制に基づく知頭口ちずぐち若桜口わかさぐち安長口やすながぐち古海口ふるみぐち国府口こうぐち・栗谷口・浜坂口はまさかぐちで、平常城下各方面に配されている組頭・物頭らが緊急時に集合する府内防衛の最初の関門であった(因府年表)。栗谷の名称の起源は本陣山の谷からえのき峠を越えて岩井いわい郡栗谷村(現福部村)へ出る道筋にあたることから栗谷口の名称が生れ、その後谷をも栗谷とよぶようになったと推定されている。また往昔栗谷から榎峠を越える道が本往来であったが、同峠一帯が御山構に入ったため法美ほうみ郡百谷村住民以外の通行が禁じられたという(以上「因府年表」)。なお延享元年(一七四四)には前年「栗谷御本陣道」が御留となったため、肥草等が足りず開作にも難渋するとして品治ほんじ村など一二村から訴えが出され、御立山内の通行が許可された(在方諸事控)。明暦二年(一六五六)には降雪時の町役として栗谷口に雪掻人夫三人の出役が定められ、翌三年には栗谷口に竹垣・竹柴折戸の番所が設けられた(町方御定)

安政六年(一八五九)の城下絵図および文久元年(一八六一)の分限帳(県立図書館蔵)により武家屋敷住人と年齢をみると、門外の山手側には山崎左馬允(八〇〇石、文久元年三四歳)、在方長役佐野増蔵(三〇〇石、同年五二歳)、鱸郷右衛門(四〇〇石、同年五九歳)、山本玄蕃(一千二〇〇石、同年二七歳)の屋敷が惣堀と栗谷川の間にある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報