柴田村(読み)しばたむら

日本歴史地名大系 「柴田村」の解説

柴田村
しばたむら

[現在地名]大栄町柴田

堀籠ほうめ村の西に位置する。応永三一年(一四二四)九月二六日のかとう憲景寄進状(大慈恩寺文書)に「大須賀保柴田村」とみえ、同村内の田九反小が大慈恩だいじおん寺に寄進されている。次いで同三三年四月一〇日の大須賀朝信証状(同文書)にも大慈恩寺当知行領の一所として柴田がみえ、その面積は一町七反大であった(同年八月「大慈恩寺寺領注進状案」同文書)。元亀四年(一五七三)三月四日の大須賀政朝証状(同文書)にも柴田とみえる。天正一九年(一五九一)知行書立(千葉県の歴史)には「しはた郷」とみえ、同郷三一二石余が旗本神保氏に与えられている。同氏の知行は幕末まで続く。

柴田村
しばたむら

[現在地名]木造町柴田

田圃を隔てて北西貫水ぬきみず村があり、東の川添かわそい村、西の岡部おかべ村と柴田村は一つの村のようにみえる。

天和三年(一六八三)の広須御新田所図に村名が「野崎」とだけある。村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、享保一一年(一七二六)これまでの下野崎しものざき村が柴田村と改名された。「平山日記」の同一二年に「下五川添村、下野崎村分」とあるが誤りと思われる。同年木造新田に属し、木造通三五ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて三一町四畝歩、村高一六三・三六三石とある。うち田方は二九町七反一一歩で一五八・六一四石、上・下・下々田と設定され、下々田が二六町五反九畝一〇歩、一三二・九七四石であり、畑方は一町三反三畝一九歩で四・七四九石、下畑と下々畑のみで、下畑が八反二畝六歩、二・四六六石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報