板戸村(読み)いたどむら

日本歴史地名大系 「板戸村」の解説

板戸村
いたどむら

[現在地名]宇都宮市板戸町

鬼怒川東岸に位置し、芳賀はが郡に属する。北は塩谷宝積寺ほうしやくじ(現高根沢町)に接し、芳賀はが・塩谷の郡境をなし、東も塩谷郡上高根沢かみたかねざわ村、西は鬼怒川を隔てて河内かわち下岡本しもおかもと(現河内町)と対する。北から東および南西にかけて山林原野をなし、南方も原続きで、西方鬼怒川に面したほぼ正方形の地帯が平地となる。藤原宗円が宇都宮城を築くとき城門の扉にする槻の大木を献上したことから板戸と称したという。初め柏木かしわぎに居住したが、元文年間(一七三六―四一)の鬼怒川洪水により柏木の北方に移住し今泉いまいずみ新屋敷しんやしき中居なかい田中たなか築地つきじ川岸かわぎし反目そりめなど七地区を板戸村としたという(芳香誌料)

板戸村
いたどむら

[現在地名]伊勢原市板戸・鈴川すずかわ

北は上糟屋かみかすや村、西は白根しらね村、東は田中たなか村・伊勢原いせばら村に接する。大山道と矢倉沢やぐらさわ往還が通る。小田原衆所領役帳には布施弾正左衛門「四拾貫四百五拾文 中郡板戸」とある。また天正三年(一五七五)一二月一〇日の布施康能・同康朝連署書出(県史三)によれば、両者の私領「板戸之郷内四貫百弐文」が、鎌倉妙本みようほん常住じようじゆう院の再建費用として寄進されている。

元禄一〇年(一六九七)旗本戸田・大岡・安藤領の三給。平塚宿の大助郷を勤め、享保三年(一七一八)の助郷高三二七石(「平塚宿助郷帳」県史九)

板戸村
いたどむら

[現在地名]酒田市板戸

落野目おちのめ村の南西、京田きようでん川下流右岸に位置する。万治二年(一六五九)庄内藩士杉山弓之助成一が藩命により開発、五〇戸余で一村をなした(安政五年杉山君墾田碑)。寛文八年(一六六八)には板戸新田村として高三三七石余、うち二五石余が肝煎組頭持高、一五五石余が御家中手作高(「下余目組役引高書上」余目町史)。天保郷帳では高四八七石余、庄内要覧では免四ツ五分、家数五二。開発後あか川・京田川の洪水による被害が大きく、元禄一〇年(一六九七)、同一四年にも家半分が浸水した(「年々作物取諸事覚」伊藤文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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