松長村(読み)まつながむら

日本歴史地名大系 「松長村」の解説

松長村
まつながむら

[現在地名]沼津市松長

大諏訪おおずわ村の西続きの村で、西は今沢いまざわ村。南は海(駿河湾)に面している。村内を東海道が横断、東西七町四一間の往還沿いは大部分家並が続いていた(宿村大概帳)。「駿河志料」や「駿河記」によると、かつて当村は東海道の往還より北へ二―三町入ったところ、東方の日吉ひよし村へ通ずる道続きにあったが、江戸時代に東海道が整備されるにつれ、集落全体が往還沿いに移ったといわれる。松永村とも書いた。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、宝永三年(一七〇六)大久保教寛領(のちの相模荻野山中藩領)となり、享保年間(一七一六―三六)当地に大久保家の陣屋が置かれている。その後領主変遷はなく、荻野山中藩領で幕末を迎えている(旧高旧領取調帳など)

松長村
まつながむら

[現在地名]栗橋町松永まつなが

伊坂いさか村の南に位置。松永とも書く。村の東を古利根川が流れ、川沿いに古堤がある。日光御廻おまわり道のほか、鎌倉街道であったという古道が通る。「風土記稿」によれば、天正年間(一五七三―九二)紀州から来た慶長という者が開発したと伝える(その子孫七郎右衛門は名主を務める)。田園簿に村名がみえ、田高一石余・畑高一三八石余で、幕府領。元禄郷帳では一七二石余で幕末まで変わらない。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっており、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)などでも一橋領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報