松村介石(読み)まつむらかいせき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松村介石」の意味・わかりやすい解説

松村介石
まつむらかいせき
(1859―1939)

宗教家、「道会(どうかい)」の主宰者。播磨(はりま)国(兵庫県)明石(あかし)藩士の家に出生。16歳で神戸の宣教師に、さらに横浜で改革派教会宣教師J・H・バラの塾に学ぶうちキリスト教入信。1882年(明治15)12月、日本組合教会高梁(たかはし)教会(岡山県)の牧師に就任。その後、『福音(ふくいん)新報』(大阪)、『基督(キリスト)教新聞』(東京)の編集に従事、このころ新神学に傾いた。1907年(明治40)キリスト教に基づく「日本教会」を創立、神儒仏基に共通する信神・修徳・愛隣・永生の4綱領を信条とした。翌1908年、機関誌『道(みち)』を刊行。のち教会を「道会」と改称し、大倉孫兵衛(1843―1921)、森村市左衛門ら財界人の援助を受けて宣教活動を進めた。1915年(大正4)東京渋谷に拝天堂建立青年知識人を集めた。

[高橋昌郎 2018年3月19日]

『松村介石著『信仰五十年』(1926・道会事務所/複製・1996・大空社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「松村介石」の意味・わかりやすい解説

松村介石 (まつむらかいせき)
生没年:1859-1939(安政6-昭和14)

宗教家。宣教師バラの塾に学び,キリスト教の教えに触れてバラにより受洗,牧師となって宣教活動にあたり,一時は植村正久内村鑑三とともに〈キリスト教界の三村〉と称された。儒教道徳を重視し,正統的な教会の信仰から外れて日本的キリスト教を提唱するようになり,1907年日本教会(のちの道会)を設立,翌年機関誌《道》を創刊して信神,修徳,愛憐,永生の四綱領を軸に道徳運動を進めた。
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朝日日本歴史人物事典 「松村介石」の解説

松村介石

没年:昭和14.11.29(1939)
生年:安政6.10.15(1859.11.9)
キリスト教伝道者。修養団体「道会」の創始者。父は明石藩の藩士。横浜に出て宣教師J.H.バラーのもとでキリスト教に入信。岡山県高梁教会牧師,『基督教新聞』の編集,キリスト教系の山形英学校教師などを勤めたが,明治40(1907)年,独自の宗教団「日本教会」(のち「道会」と改称)を起こし,森村市左衛門らの援助で東京渋谷に本部「拝天堂」を建て,機関誌「道」を発行,「信神,修徳,愛隣,永生」を四綱領とし普遍的な神との合一を目的とする修養を説いた。内村鑑三,植村正久と共にキリスト教の「三村」と呼ばれたこともある。<著作>『信仰五十年』『立志之礎』

(鵜沼裕子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松村介石」の意味・わかりやすい解説

松村介石
まつむらかいせき

[生]安政6(1859).11.10. 明石
[没]1939.11.29.
道会の創設者。一時養家の森本姓を名のる。 1876年上京,玉藻学校廃校後,横浜バラ塾に学び,キリスト教に入信。高梁教会牧師を経て『福音新報基督教新聞』を編集。その後山形英学校北越学館教員となる。その儒教的発想のキリスト教処世論は青年を魅了し,東京青年会日曜講演会は都下の人気を集めた。 1907年,キリスト教の信仰を離れ,修養団体「道会」を創設,信神,修道,愛憐,永生の4綱領を掲げ,教化に努めた。『道』 (1908) 誌を主宰。主著『立志之礎』 (1889) ,『新宗教』 (1925) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松村介石」の解説

松村介石 まつむら-かいせき

1859-1939 明治-昭和時代前期の宗教家。
安政6年10月16日生まれ。J.H.バラにまなびキリスト教に入信。明治40年儒教道徳をくわえた日本的キリスト教を説く日本教会(のち道会と改名)を設立,翌年「道」創刊。大正4年大倉孫兵衛ら財界人の援助で東京渋谷に拝天堂を建設した。昭和14年11月29日死去。81歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。著作に「信仰五十年」など。

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