東河内村(読み)ひがしごうちむら

日本歴史地名大系 「東河内村」の解説

東河内村
ひがしごうちむら

[現在地名]千種町河内こうち

千種川の最上流域、千草ちくさ谷の最北部に位置し、北は因幡国八東はつとう中原なかはら(現鳥取県若桜町)、南は河呂こうろ村、西は西河内村正保郷帳に「千草之」、元禄郷帳・天保郷帳に「千草」とそれぞれ村名に肩書があり、宍粟郡内の同名の東河内村(現一宮町)と区別されている。領主の変遷は鷹巣たかのす村と同じ。正保郷帳では田方一九五石余・畠方四二石余。寛保二年(一七四二)の宍粟郡村々高附(尾崎家文書)によると総反別一八町歩余。高地のため積雪で裏作ができず、田免約二割四分・畠免約二割五分と租率は他村に比して低かった(各年の「免状」河内区有文書)

東河内村
ひがしかわちむら

[現在地名]北区大森東おおもりひがし

清滝きよたき川上流の山間の村で、桟敷さじきヶ嶽の西南部に位置する。近世初頭には、西河内村・なか村とともに小野おの村ともよばれた。村の伝えでは、惟喬親王(文徳天皇第一皇子)がこの地に隠棲したといい、村内の長福ちようふく寺に親王の塔が建つ。

東河内の名が文献にみえるのは、村内にある寿仏じゆぶつ寺文書の元亀四年(一五七三)正月付大般若経願文で、「小野郷東河内惣中」の人々八三人が、大般若経を村に施入するにあたり、一枚ずつ自分の名を記している。

東河内村
ひがしかわうちむら

[現在地名]中条町東川内ひがしかわうち

北を湯井ゆい川が西流し、東は大塚おおつか村・八田新はつたしん村、西は西河内にしかわうち村、南は塩津しおづ新田、北は柴橋しばはし村に接する。享保年間(一七一六―三六)紫雲寺しうんじ潟開発までは潟端に位置した。正保元年(一六四四)村上藩浪人谷川六右衛門顕道により開発されたと伝える(皇国地誌)。元禄郷帳に柴橋村枝郷として東川内村とみえる。村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領となる。万治二年(一六五九)の検地高六〇石五斗余(「検地帳合計写書上」大沼安在氏蔵)

東河内村
ひがしごうちむら

[現在地名]一宮町東河内

染河内そめごうち川の本流本谷ほんだに川およびその支流中坪なかつぼ川・山田やまだ川の川筋に沿って開けた山村。西は能倉よくら村。東川内村とも記される(旧高旧領取調帳)。領主の変遷は延宝七年(一六七九)まで西安積にしあづみ村と同じ。同年から幕末までは杉田すぎた村と同じ。正保郷帳では村名に「染河内東河内村之」との肩書があり、田方三四四石余・畠方二三八石余。下村氏手控帳(下村家文書)によれば、寛文―延宝(一六六一―八一)には田一八町五反余・畑三二町六反余、家数一一三・人数七七一、馬二〇・牛一四四、小物成は茶役一千二二六匁余・楮役九八匁余・桑役(真綿)六貫六八〇匁余。当村での製茶は特記すべき生業で、染河内谷での製茶は宍粟郡の経済事項を集めて作られた山崎往来(中村家文書)のなかで「染河内茶」として取上げられている。

東河内村
ひがしこうちむら

[現在地名]三次市東河内町

西城さいじよう川東岸に形成された河岸段丘上に位置し、対岸は西河内村。もと西河内・山家やまがと一村で、河内村と称したという。分村の時期はわからないが、元和五年(一六一九)の備後国知行帳ではすでに東西両河内村に分村し、当村は高四七九・三六五石。なお「芸藩通志」は「ひがしかわち」と読む。

江戸時代は広島藩領であるが、寛永九年(一六三二)から享保五年(一七二〇)までは三次藩領。享保七年写の三次郡覚書(広島大学蔵)に人数二九〇、家数四六(本百姓三九・名子七)、牛一一匹・馬七疋とあり、「芸藩通志」は二九四人・五九戸、牛五五・馬四三と記す。

東河内村
ひがしごうどむら

[現在地名]塙町東河内

西河内村の北東、渡瀬わたらせ川支流の赤坂あかさか川・ひがし川流域の山地に立地。東川内とも記す。江戸時代の領主の変遷は常世北野とこよきたの村と同じ。慶長八年(一六〇三)の赤館之内東河内村縄打割付帳写(塙町史)によると高四四五石余。正保郷帳では高五〇五石余、うち田三八五石余・畑一二〇石余。元禄郷帳では高五七三石余、枝郷の出戸でど村の高一四〇石。享保一四年(一七二九)村差出帳(塙町史)によれば高六九一石余、家数一二四(本百姓八九・水呑三五)、人数六〇一(男三三三・女二四三・出家八・山伏一二・道心五)、馬七六。

東河内村
ひがしごうちむら

[現在地名]日高町東河内

栗栖野くりすの村の北、神鍋かんなべ台地の北奥に位置する。江戸時代の領主の変遷は頃垣ころがき村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高一五二石余。出石封内明細帳では田方一三五石余・畑方一六石余、ほかに新発高一斗余がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報