西河内村(読み)にしかわちむら

日本歴史地名大系 「西河内村」の解説

西河内村
にしかわちむら

[現在地名]北区大森西おおもりにし

桟敷さじきヶ嶽の西南、清滝きよたき川の支流西町にしまち川の西岸に開かれた山村。

西河内の名がみえるのは、村内の日下部奈良江家文書の天文五年(一五三六)三月一一日付中間下司延安田地売券に、田地を「西(ママ)内今北神三郎方」に売却したとあるのが早い例である。またこれとほぼ同じ頃に発せられたと推定される女房奉書にも、「をの(小野)うち(内)にしのかハち(西河内)(与カ)五郎」なる文言がみえ、遅くとも戦国期頃までに村落が成立していたことがわかる。

西河内村は近世の初めまでひがし河内村・なか村とともに小野おの村と称している。寛永九年(一六三二)八月三日付の領主である禁裏への願状(今北家文書)も、差出人は、この三村の計八名の連署で出されている。

西河内村
にしごうちむら

[現在地名]千種町西河内

千草ちくさ谷の最北部、東河内村の西に位置し、北は因幡国八東はつとう吉川よしかわ(現鳥取県若桜町)、西は美作国吉野よしの大茅おおがや(現岡山県西粟倉村)正保郷帳では村名に「千草ノ」との肩書があり、佐用郡西河内にしがいち(現佐用町)と区別するためとみられる。領主の変遷は鷹巣たかのす村と同じ。正保郷帳では田方一四六石余・畠方三〇石余。元禄郷帳では高二二五石余。寛保二年(一七四二)の宍粟郡村々高附(尾崎家文書)によると総反別一八町歩余。東河内村同様に高地のため積雪が多く、裏作のできない土地柄のため租率は田免二割五分余・畠免二割六分余と他村に比べて低い(各年の「成箇帳」西河内区有文書)。文化二年(一八〇五)村明細帳(同文書)に「当村は極く山中、美作・因幡両国境にて御林山裾にて、田方用水冷え込み、平生稲生立よろしからず、毎年彼岸より土用までは雪霜の所故、百姓間合には鉄山に参る者もこれあり、引方職に参る者もこれあり、千草町へ売木仕り候者もこれあり」とある。

西河内村
さいごうちむら

[現在地名]三隅町西河内

三隅川下流右岸に位置する。北西は日本海に面し、東は折居おりい村、西は古市場ふるいちば村、南は岡崎おかさき村。ふく浦およびみなと(のち分村)があった。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高三三四石余、年貢高は田方一六八石余・畑方三九石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では三隅湊(湊浦)が分れて別に高付されており、高三二〇石余、開方九石余。代官屋敷酉より永引として二斗四升の記載があり、浜田藩の三隅組代官所が当村に置かれ、現在の高田たかたの野上家屋敷がその跡といわれる(三隅町誌)

西河内村
にしがわちむら

[現在地名]日和佐町西河内

日和佐浦奥河内おくがわち村の西に位置し、東流する日和佐川の流域にはら馬木うまき木谷野きやの庄瀬しようぜ・はりま・丹前たんまえ月輪つきわ田々川たたがわなどがある。長享三年(一四八九)一〇月二日の日和佐広泰譲状(土佐国蠧簡集)にみえる「タヽカワ」「タ見マイ」は田々川・丹前にそれぞれ比定される。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「西河内」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「西河内村」、正保国絵図では「日和佐之内 西河内村」と記される。

西河内村
にしごうちむら

[現在地名]落合町西河内

下市瀬しもいちぜ村の西にあり、北・西・南の三方を山に囲まれる。西河内川が南東流し、垂水たるみ村に入り、同村で備中川に合流する。大山往来が通る。正保郷帳では田高三三六石余・畑高一九七石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳によると村位は中、改出高一八八石余・開高三三石余。「作陽誌」では家数九八・人数五二五。なお同書編纂のための差出控(真庭郡誌)によると九八軒のうち本百姓三八(うち社人一)・無高牢人一・名子百姓二九・家来三〇。枝村の日野邑(現日の乢、高一九石余)は家数五、畑(高一五石余)は家数四、原方(高六九二石余)は家数八九。津山藩森家断絶後の領主の変遷は日名ひな村に同じ。「作陽誌」には伊勢・春日・八幡を祀る三所神社がみえ、ほかに内足・中山社が載るが、「美作国神社資料」では八幡神社が記される。

西河内村
にしかわうちむら

[現在地名]中条町西川内にしかわうち

南を逆上ぎやくじよう川が北西へ流れ、東は柴橋しばはし村、北は中条築地なかじようついじ往来を境に新館しんだて村、西は築地村に接する。享保年間(一七一六―三六)紫雲寺しうんじ潟開発以前は潟端に位置する水浸の地であったという。正保元年(一六四四)村上藩の浪人速水藤右衛門・同理右衛門・篠田兵太夫の三人により開発されたと伝える(皇国地誌)。万治二年(一六五九)の検地時には田畑四町二反四畝余のほかに、除地として速水ら三人分の田各三町があった(「検地帳合計写書上」大沼安在氏蔵)

西河内村
にしごうどむら

[現在地名]塙町西河内

上渋井かみしぶい村・常世北野とこよきたの村の北、久慈くじ川東岸、渡瀬わたらせ川支流西にし川流域の丘陵に立地。西川内とも記す。明徳三年(一三九二)五月三日の良源二所熊野檀那職譲状(八槻文書)に「八槻郷内西河内」とみえ、当地ほかの熊野檀那職が治部殿(現棚倉町の都々古別神社別当八槻氏か)に譲られている。江戸時代の領主の変遷は常世北野村と同じ。正保郷帳に村名がみえ高五六七石余、うち田四二七石余・畑一三九石余。

西河内村
にしこうちむら

[現在地名]三次市西河内町

山家やまが村の東、西城さいじよう川の西岸に位置し、川を隔てて東に東河内村・穴笠あながさ村と接する。江戸時代は広島藩領であるが、寛永九年(一六三二)より享保五年(一七二〇)までは三次藩領。もと東河内村・山家村と一村で河内村と称したが、元和五年(一六一九)の備後国知行帳ではすでに西河内村六四七石八斗九升四合とある。明暦三年(一六五七)三次藩の検地ではさらに、西河内村二五七・三三九石と山家村三三二・九一八石に分れている。

西河内村
にしがいちむら

[現在地名]佐用町西河内

福沢ふくさわ村の西、大撫おおなで山の北面山地に立地する。江戸期の領主の変遷は当初は佐用さよ村に同じ。寛永一七年(一六四〇)山崎藩主松平(松井)康映の甥松井康朗に分知され、旗本松井平福領となる(「寛政重修諸家譜」など)。その後は天保七年(一八三六)幕府領、弘化元年(一八四四)龍野藩預となり幕末に至る(「年貢免状」淀村文書)

西河内村
にしかわちむら

[現在地名]和知町字西河内

下粟野しもあわの村から西に入る谷にある。北から西にかけての何鹿いかるが(現綾部市)との境界には六〇〇―七〇〇メートルの山が連なり、流れ出る水は西河内川そのほかとなって東流し村の東端で上和知川に注ぐ。集落や耕地は河岸や谷間に点在する。

西河内村
にしごうちむら

[現在地名]弥栄村高内たかうち

日高ひだか村の西に位置し、西は栃木とちぎ村。郷帳類では長安ながやす村に含まれた。古高八五石余、寛永一四年(一六三七)の検地高一六九石余。明治四年(一八七一)の総高一七一石余・反別二三町一反余。

西河内村
にしかわちむら

[現在地名]五條市西河内町

関屋せきや川流域の村落。慶長郷帳・元和郷帳には「西川村」とみえる。慶長期(一五九六―一六一五)以来旗本小堀氏(正行系)領一九三・四石と旗本庄田氏(安照系)領九六・八三石の相給村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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