東光院跡(読み)とうこういんあと

日本歴史地名大系 「東光院跡」の解説

東光院跡
とうこういんあと

[現在地名]角田市尾山 大門

金津かなづ宿の東、内町うちまち溜池の南の小名鬼越おにこしにあった本山派修験。鬼越山鎮護寺大門だいもん坊と称する。開院は承和一三年(八四六)と伝える。三二世能泉までは東光坊もしくは大門坊と称し、その後連上れんじよう院、三六世養元から東光院と名乗った。縁起では、開祖安達あだちはら(現福島県)の鬼女をこの地に追いつめて討ちとった、その恩賞として一帯の地を賜り開院したと伝え、山号鬼越山もこの由緒にちなむという。

東光院跡
とうこういんあと

[現在地名]博多区吉塚三丁目

江戸時代の堅糟かたかす村に所在した寺院。本来は堅粕山薬王やくおう寺と号する天台宗寺院であった。寺伝によれば大同元年(八〇六)最澄(伝教大師)開基で、本尊薬師如来は最澄が中国から帰朝した際に彫刻したものという。当院は薬師如来を守る僧の住する寺であった。鎌倉期に禅宗に転じ博多承天じようてん寺の末寺となった。かつて当院にあった銅鐘は応永二〇年(一四一三)四月一六日の年紀を有し、銘文に「大日本国西海路筑前堅粕村本堂薬王院再鋳洪鐘」、末尾には「大檀那武衛将軍沙弥道鎮、近江守平満家、勧進沙弥宗道、大工左近将監入道宗久」とあり(続風土記・続風土記拾遺)、九州探題渋川満頼(道鎮)によって施入された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報