東京湾(読み)とうきょうわん

精選版 日本国語大辞典 「東京湾」の意味・読み・例文・類語

とうきょう‐わん トウキャウ‥【東京湾】

関東地方南部の海域。房総・三浦の両半島に囲まれ、浦賀水道で太平洋に連なる。狭義には三浦半島東端の観音崎と房総半島の富津岬とを結ぶ線以北をいい、広義には浦賀水道を含み、房総半島南西端の洲崎(すのさき)と三浦半島の剣崎(つるぎさき)とを結ぶ線以北をいう。多摩川、隅田川、江戸川などが流入し、沿岸には京浜・京葉の臨海工業地帯が発達。横浜、川崎、東京、千葉、木更津、横須賀などの港がある。

トンキン‐わん【東京湾】

ベトナム北部、中国広西壮(カンシーチワン)族自治区、広東省の雷州半島と海南島に囲まれた湾。南シナ海に通じる。海上交通の要地で、水産資源に富む。ハイフォン港がある。一九六四年八月に、アメリカがベトナム戦争介入の口実とした軍事衝突(トンキン湾事件)のあった所。

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デジタル大辞泉 「東京湾」の意味・読み・例文・類語

とうきょう‐わん〔トウキヤウ‐〕【東京湾】

関東地方南部、房総半島三浦半島に囲まれる海域。浦賀水道で太平洋につながる。湾岸には東京・横浜・千葉などの大都市・貿易港が並ぶ。埋め立てが進み、臨海工業地帯を形成。

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日本歴史地名大系 「東京湾」の解説

東京湾
とうきようわん

房総半島と三浦半島に囲まれた湾で、関東平野に入り込む。三浦半島東端の神奈川県横須賀市の観音かんのん崎と富津市の富津岬を結ぶ線より以北の内湾で、広義には三浦半島南東端の神奈川県三浦市つるぎ崎と房総半島南西端の館山市洲崎すのさき以北にある浦賀水道を含む。江戸時代には相模国浦賀と上総国百首ひやくしゆ(現富津市)を結ぶ線以北での通船は、船改の対象にならなかったことが注目される。一六世紀初頭以前に上総・安房は三浦半島から向地むかいちとよばれ、大永七年(一五二七)と推定される一〇月一三日の北条氏綱書状(東慶寺文書)などに「むかいち」とみえ、天正一二年(一五八四)九月日の北条氏勝判物写(上総国古文書)に向地とある。これは政治的・軍事的関係はもとより、年貢米・材木ほかの輸送などの経済面、仏教を中心とする宗教活動、鋳物師ややぐらなどにみる文化的交流などを前提として生じた呼称であろう。しかし交通の舞台としての東京湾は古代の東海道が相模国から上総国に入ったことからも知られるように、歴史時代以前にさかのぼるであろう。その呼称は史料上は内海・入海とみえ、便宜上江戸内湾・中世江戸湾などとしている。

〔内海より外海へ〕

三浦半島の走水はしりみず(現横須賀市)を出た古代の東海道は上総国に入って房総を北上するが、この最初の駅が明らかではなく、「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる天羽あまは(天羽郡)を最初とする説では現富津市みなとに比定する。湊という地名は重要であるが、地名としては比較的後代に属する。これに対して現市原市大厩おおまやに当てる大前駅をオオサキと読んで富津岬のいずれかの地域(周淮郡)とみる説も検討すべきであろう。富津岬は鳥瞰すればなにより対岸に近く、中世の富津の湊津機能から想定すればやはり海路有利な位置にあったといえる。一方、市原郡は上総国府が置かれ、郡内に海部あま郷がある。また隣接して海上うなかみ郡が存在し、律令以前上海上国造の領域と推定される地であることから、海上交通との関連は容易に想定される。「万葉集」巻一四にみえる海上潟は上総海上郡の地先に広がる潟ともいわれ、船の往来がみられた。

房総半島への伊勢信仰・熊野信仰の浸透は早くからあったとされるが、房総から伊勢・熊野への輸送もみられる。大治五年(一一三〇)当時布施ふせ(相馬御厨の前身、現我孫子市など)では海船をもち、伊勢内宮に雉一〇〇鳥・塩曳鮭一〇〇尺を送進し(六月一一日「下総権介平経繁副状写」櫟木文書など)、正中二年(一三二五)には相馬そうま御厨からの布代銭の納入に船賃銭二貫二五文とあり(三月「伊勢神宮神主度会行文処分状写」同文書)、海上輸送がうかがえるが、香取海を経由して外海に出たのでなければ、この海船は関宿せきやど(現関宿町)付近を経由して太日ふとい(のちの江戸川筋)を下り、江戸湾に出て伊勢に向かった可能性がある。

東京湾
とうきようわん

東京湾は伊豆諸島が点在する太平洋上から、房総半島と三浦半島に囲まれる浦賀うらが水道で振分けられている。南北に細長く、奥行ほぼ五〇キロに及ぶ、波静かな内湾である。狭義には三浦半島の観音かんのん(神奈川県横須賀市)と、房総半島の富津ふつつ(千葉県富津市)を結ぶ線より北の部分を、広義には三浦半島南端のつるぎ(神奈川県三浦市)と、房総半島南西端の洲崎すのさき(千葉県館山市)を結ぶ以北を東京湾とよんでいる。湾内は一般に水深が浅く、とくに湾頭の千葉市から東京区部への海岸付近は、浅海で水深三〇メートルにも達しない。西岸では横浜本牧ほんもく(神奈川県横浜市中区)から横須賀へ、東岸では富津から内房への海岸景観は、第三紀丘陵地形なので海底にも地形の起伏がみられ、水深も四〇―五〇メートルと深まる。さらに房総半島ののこぎり山付近や浦賀水道には水深五〇〇メートル以上の海谷も入り込んでいる。この辺りの海岸線は、リアス式の出入りの多い岩石海岸である。

東京湾の海底は、流入する河川の供給泥土からなっている。北岸の東京から房総の木更津きさらづ付近までは、砂質土壌で埋立地などに多く利用されている。そのため、かつての自然の風景は着実に失われているが、南部の浦賀水道一帯は、岩石の露出した自然の景観をとどめている。湾内に流れ込むおもな河川は隅田川・江戸川・多摩川・鶴見つるみ川・養老ようろう川・小櫃おびつ川・小糸こいと川などである。後背地を流れてきた河川は運搬してきた土砂を河口付近に堆積し、三角洲を造る。多摩川・江戸川・養老川・小櫃川などに三角洲景観の典型がみられる。多摩丘陵や房総丘陵を削りながら渓谷を縫い、流下した河川は、河口で整った三角洲を造成する。それに比べ隅田川の低湿氾濫原にみる湾岸景観、武蔵野台地や下総台地にみる湾岸景観は、多摩川や養老川の湾岸三角洲景観とはまったく異なった地形的風貌を描き上げている。なお東京湾隣接の二三区と、内陸の多摩地区とでは気温の較差や植生の相違が大きい。ちなみに東京都心と八王子付近との冬の最低気温を比較すると、摂氏一〇度前後の差のあることが報告されている。もちろん東京湾の影響だけではなく、都市気候の温暖化にも左右されていることだろう。

〔古代・中世〕

「古事記」景行天皇段には倭建命(日本武尊)が相模から上総に渡る際、走水はしりみず(現横須賀市)の海神の怒りを鎮めるため、倭建命に代わって妃の弟橘比売が入水し、倭建命は無事に渡ったとされる。古代の東海道も当初は相模国走水から海路で上総国に入り、房総半島を北上していた。

東京湾
とうきようわん

三浦半島東端の横須賀市の観音かんのん崎と千葉県富津ふつつ市の富津岬を結ぶ線より以北の内湾で、広義には三浦半島南東端の三浦市つるぎ崎と房総半島南西端の千葉県館山市洲崎すのさき以北にある浦賀うらが水道を含む。東京湾の呼称は近代以降のもので、近世までは内海うちうみとよばれた。

〔原始・古代〕

約一万―七万年以上前のウルム氷河期には海面は低下して東京湾は存在せず、現在の海底が本牧ほんもく沖から浦賀水道にかけて低くなっていることから、「古東京川」が流れ、浦賀水道付近で相模湾に注いでいたと思われる。氷河期が終わり、気候の温暖化に伴い海面は徐徐に上昇、今から九千年ほど前より夏島なつしま貝塚(横須賀市)など撚糸文土器群を出土する遺跡が川崎・横浜両市の丘陵地帯から三浦半島にかけて集中し、相模湾岸よりも早く人類の居住が始まったと考えられる。これらの貝塚遺跡からは獣骨や鳥骨のほか、黒鯛・鯒などの内湾性の魚類とともに鮪・鰹など外洋性の魚の骨が非常に多く出土する。野島のじま貝塚(横浜市金沢区)からは大・小の釣針、吉井よしい貝塚(横須賀市)からなどが出土、漁労技術の進歩がうかがえる。縄文前期の縄文海進により東京湾岸では三―四メートルの海面上昇があった。このため鶴見つるみ川中流域にまで海が広がり、「古鶴見湾」とでもいうべき入江が形成されるなど溺れ谷が発達し、各地に内湾が形成された。この「古鶴見湾」の周辺の台地上に貝塚が多くみられ、南堀みなんぼり貝塚(横浜市港北区)では四八戸の竪穴住居跡とともに海岸への降り道と舟置場などが発掘されている。縄文中期以降の貝塚からは土錘・石錘が多量に出土し、網漁が行われたと推定される。縄文後期の称名寺しようみようじ貝塚(金沢区)からはイルカの頭骨や魚骨・鱗が厚い層をなして発見され、また数十点を超える多数の骨角製の漁具が出土している。

「古事記」景行天皇条には倭建命(日本武尊)が相模より上総に渡る際、走水はしりみずの海神の怒りを鎮めるため妃の弟橘比売が命に代わって入水し、無事渡ることができたという話を伝え、東京湾を西から東の上総へと横切る海上交通路が開けていたと推定される。また「延喜式」(主計)によれば、相模国から短鰒・堅魚が中男作物として朝廷に貢進されていた。

〔中世〕

平安時代末には三浦半島を本拠地とする三浦氏が西は相模の中央部から東は東京湾を越えて房総半島にまで勢力を伸ばした。治承四年(一一八〇)八月、源頼朝の挙兵に応じた三浦氏に対岸の上総国の上総介広常の弟金田頼次が衣笠きぬがさ(現横須賀市)で合流したこと(「吾妻鏡」治承四年八月四日条)、頼朝が平氏方の攻撃を受けて海路安房国へ逃れたことや(同書同年八月二七日条)、三浦義澄は房総地方の「国郡案内者」とよばれていること(同書同年九月三日条)などから、三浦氏一族は水軍としての性格をあわせもち、東京湾・相模湾一帯で活動していたのであろう。

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改訂新版 世界大百科事典 「東京湾」の意味・わかりやすい解説

東京湾 (とうきょうわん)

房総半島と三浦半島にはさまれた海湾。千葉県富津(ふつつ)市の富津岬と神奈川県三浦市の観音崎とを結ぶ線より北の海域(内湾)を指すが,広義にはこの線以南の浦賀水道(外湾)を含む場合もある。湾には多摩川,隅田川,江戸川,養老川,小櫃(おびつ)川,小糸川などの河川が流入し,河口に三角州を形成している。

 湾奥部は近世以来,江戸の町づくりのための埋立てや江戸湊築造が行われ,他の沿岸部はアサクサノリや貝類の養殖を主とする内湾漁業の地であった。江戸湊は,明暦の大火(1657)後の新しい都市計画に伴って,築地から高輪に至る外港部と隅田川沿いの内港部(おもに右岸は食糧・雑貨,左岸は木材の荷揚場)とが整備された。幕末の1853年(嘉永6)品川沖に台場が築かれた。やがて横浜港が開港し,近代日本の玄関口として繁栄する。関東大震災前後から重化学工業化の波が押し寄せて横浜港と東京を結ぶ京浜運河とそれに沿う臨海工業地帯が,浅野総一郎の尽力等で形成されるようになり京浜工業地帯が誕生した。また震災救援を契機に東京港の建設が進められることになり,1941年には開港にこぎつける。第2次世界大戦前の東京湾の変容で特記されるのは多摩川河口に羽田空港が誕生したことであるが,当時の航空機は今日からみればきわめて小型であったため空港規模もかなり小規模なものであった。千葉県側の海岸は白砂青松の海岸が潮干狩で賑わっていた。

 大戦の被害は工業地帯港湾施設に集中し,さらに戦後,主要港湾施設の占領軍接収や商船隊の潰滅でさびれた時代があったが,1950年代になると日本経済の復興を背景に船舶の出入もしだいに増加し始めた。50年代後半からは貨物の増加が本格化したが,港湾施設の増強が追いつかず,60年代初頭には横浜東京両港で滞船現象が出現し,大きな社会問題となった。この間,白砂青松の千葉に川崎製鉄所が立地して大きく変化し,これが高度成長期の京葉工業地域形成の第一歩となった。高度成長期を通し重化学工業基地が千葉県側,根岸湾に形成される一方,67年,初のフルコンテナー船が東京港に入港し,以降東京湾は横浜,東京,川崎,千葉の4港を中心に大型船専用船の港湾と工業地帯に埋めつくされていった。これを追いかけて根岸線・京葉線の鉄道整備,首都高速横羽線,湾岸道路の開通,羽田空港の大拡張,東京ディズニーランド(TDL)の進出や湾岸副都心形成等も進み,97年末には川崎~木更津間を結ぶ東京湾横断道路(通称東京湾アクアライン,全長15.1km)の開通をみて今日の大都市圏内湾ともいうべき世界に類例のない空間をつくりあげた。一方,このような変化に伴って海岸線の改変や海水の汚染が進み,内湾漁業は木更津地区ののり栽培を除きほぼ全滅し,現在ではわずかに観光的湾内遊漁が見られるのみである。海水浴場もほとんど消滅した。
浦賀水道
執筆者:

東京湾の海底は湾奥から南へ緩やかに傾斜しているが,横浜沖には中ノ瀬が水深12m近くまで盛りあがっている。中ノ瀬の両側には古東京川に続く谷地形が残されており,湾口部では水深70mに達する。富津岬と観音崎を結ぶ湾口はわずか7kmと狭く,内湾は外海の影響を直接受けにくい。東京湾の海水は1~3ヵ月で入れ替わると予想されている。

 湾底は,中ノ瀬,木更津沖および湾口部で砂,横須賀沖で一部岩盤,それ以外は泥である。特に湾中央部はシルト質粘土で,その厚さは20mにも及び,現在も年間1cmの速度で堆積が続いている。東京から千葉にかけての沿岸の広大な砂質の浅場や干潟(州通り)は,埋立てが進んでおり,東京湾の水際線の80%は人工海岸となっている。

 東京湾の水質汚染は,周辺の大都市部から流入してくる膨大な量の重金属元素,人工化合物,栄養元素によるものであり,これらの汚染物質は湾底に堆積し,また慢性的な赤潮も発生している。こうした水質や底質の環境変化により,湾内に生息するプランクトン,貝,魚などの生態系の変化も著しい。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東京湾」の意味・わかりやすい解説

東京湾
とうきょうわん

関東地方南部、房総半島と三浦半島に囲まれた太平洋側の海湾。広義には房総半島西端の洲崎(すのさき)と三浦半島の剱崎(つるぎさき)を結ぶ線以北の水域、約1500平方キロメートルをいう。しかし、狭義には富津(ふっつ)岬と横須賀(よこすか)市の勝力崎(かつりきざき)を結ぶ線以北の内湾(ないわん)、約1100平方キロメートルの水域をいい、それ以南の浦賀水道は除かれる。湾岸のうち、西部は東京都と神奈川県に、東部は千葉県に属するが、首都東京を中心として工業が進展し、日本最大の京浜工業地帯を形成、湾岸は世界有数の貿易港地域となっている。また人口の集中も著しく、2000万人を超す過密地域となっている。

[沢田 清]

地形

富津岬と横浜市の本牧岬(ほんもくみさき)の中間は中ノ瀬(なかのせ)とよばれ、20メートルぐらいの水深であり、これ以北は水深40メートル以内で、海底地形も単純である。海岸は洪積台地のため、波食による侵食作用が強く働き、堆積(たいせき)の地形となり海岸線は滑らかである。水深5メートル以下は砂質で、とくに海岸線から沖合い1~2キロメートル、水深1~2メートルの浅海は、貝やノリの養殖地として好適な環境であった。水深5メートル以内は海底の砂を使って埋め立てることが容易であり、現在では、埋立てによる人工地形の海岸線に変化している。一方、富津岬、本牧岬以南は、水深が大きく、観音崎海底水道(古東京川)と東京海底谷とよぶ二つの海底谷があり、水深は40メートル以上で、久里浜(くりはま)沖で100メートル、さらに相模(さがみ)湾底の1000メートルまで続いている。この谷に合流する小さな沈水谷はリアス海岸を形成し、第三紀層の地質と大きな川がないことから堆積作用は進まず、侵食の地形を示している。この自然の入り江が良港として早くから利用されたが、現在では埋立地の人工港のほうが活況を呈している。

[沢田 清]

湾岸の産業

東京湾は約300年前に漁業地として開発されたが、明治初期ころから漁業は衰え、ノリと貝類の養殖地となり、沿岸は海水浴場となった。また、多摩・隅田・江戸・養老・小櫃(おびつ)・小糸川などの諸川の三角州は水田地帯、台地は畑作地帯であった。しかし、京浜工業地帯の成立で、西岸の農・漁業地帯や海水浴場は消滅し、さらに北東岸も1955年(昭和30)以後、京葉工業地域が形成され、鉄鋼、石油化学など素材工業の大規模な近代工場の立地によって、農・漁業地帯から工業地帯へと大きく転換した。西岸の川崎・横浜の臨海工業地域は、同じ素材工業を主としているが、東京および内陸部は組立ておよび消費財工業が発達している。横浜港・東京港は輸出入とも多いのに対し、川崎港・千葉港は原料の輸入を主とし、四港合計して日本の約3分の1の貿易額を占める。港湾の安全と湾岸の連絡、再開発のため、東京湾岸道路(延長約160キロメートル、首都高速湾岸線は開通)、東京湾横断道路(延長約15キロメートル)、湾口部横断道路(延長約10キロメートル)が計画中で、そのうち川崎―木更津間の東京湾横断道路(一般公募で名称は東京湾アクアラインとなった)は、1997年(平成9)に開通、川崎からの9.5キロメートルは海底トンネルである。

[沢田 清]


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百科事典マイペディア 「東京湾」の意味・わかりやすい解説

東京湾【とうきょうわん】

関東地方南部の湾入。東は房総半島,西は三浦半島にいだかれ,北は関東平野に接し,南は浦賀水道を経て太平洋に通ずる。広義には浦賀水道をも含み,南北約80km,東西約30km,面積約1500km2。一般に浅く,30m以浅が特に北部に広く,浦賀水道へかけて次第に深さを増し,南端で数百mに達する。底質は湾奥の広い部分が泥で,遠浅な沿岸部では砂,湾口の浦賀水道では露岩のところが多い。首都東京を控え,東京港横浜港,川崎港などがあり,沿岸は京浜工業地帯,京葉工業地域をなす。1997年12月,木更津市と川崎市を結ぶ東京湾アクアラインが開通した。
→関連項目神奈川[県]関東平野隅田川袖ヶ浦[市]千葉[県]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東京湾」の意味・わかりやすい解説

東京湾
とうきょうわん

東京都,神奈川県,千葉県に囲まれ,浦賀水道で太平洋に通じる海湾。広義には東の房総半島南端の洲崎と,西は三浦半島南端の剣崎を結ぶ線から以北,浦賀水道を含んだ海域をいい,狭義には三浦半島東端の観音崎と千葉県の富津岬を結ぶ線以北の海域。水深約 30m。海底は泥土が大部分を占めるが,北岸と房総半島側は砂質,三浦半島側は岩石が多い。水路は狭く航行に不便であるが,湾岸に首都東京や京浜工業地帯京葉工業地域を控え,水上交通は盛んである。横浜,川崎,東京の3港を含めた京浜港や京浜運河,横須賀港,千葉港がある。近年は水質汚濁が著しく,漁業は不振。都の臨海副都心計画や業務核都市計画のもとに湾岸の埋立てが進行。みなとみらい 21 (横浜港) ,幕張新都心 (千葉港) ,東京テレポートタウン (臨海副都心) ,さらに神奈川県川崎市と千葉県木更津市を結ぶ東京湾アクアラインなどが開発されている。

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デジタル大辞泉プラス 「東京湾」の解説

東京湾

1962年公開の日本映画。監督:野村芳太郎、脚本:松山善三、多賀祥介、撮影:川又昂。出演:石崎二郎、榊ひろみ、葵京子、西村晃、玉川伊佐男、細川俊夫、織田政雄ほか。

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世界大百科事典(旧版)内の東京湾の言及

【武蔵国】より

…この地域の開発のために,治水,利水の工事が行われた。東京湾に流れ込んでいた利根川を太平洋に入る常陸川に流す付替工事は,新田開発の目的からだけで行われたのではないが,この時期の大規模な治水,利水の工事であった。このころ荒川下流地域の治水・利水工事や新田開発を担当したのは関東郡代伊奈備前守である。…

※「東京湾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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