杉谷村(読み)すぎたにむら

日本歴史地名大系 「杉谷村」の解説

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]島原市前浜町まえはままち本町ほんまち山寺町やまでらまち中尾町なかおまち原町はらまち杉山町すぎやままち宇土町うとまち江里町えりまち西町にしまち木町ぎまち上折橋町かみおりはしまち下折橋町しもおりはしまち北千本木町きたせんぼんぎまち南千本木町みなみせんぼんぎまち立野町たてのまち

島原村の北西に位置し、北東部は有明海に臨む。きた川・中尾川・中河なかご川などが流れ、南西部に入道にゆうどう山・鳥越とりごえ山・やけ山などがある。古くは杉山村と称し、村内に山寺がある。杉山の温泉おんせん熊野神社境内で平安時代の製鉄遺跡が発見された。江戸時代は島原藩領の北目筋に属する。元和二年(一六一六)の大村領預り地村役人証文(大村見聞集)に記される「三会村北道さし」「同 南道さし」の南道が当村とされ、有馬氏転封に伴い大村藩預地になっていた。さしは散使。寛永一四年(一六三七)の島原の乱で地内の宇土で一揆勢と島原藩兵との激戦があり、竜源りゆうげん寺は焼失したという。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図に「三会内杉山村」として高六五四石余とあるのが当村で、また別に「杉山村内千本木」と記される。三会みえ村より分立したのは万治元年(一六五八)か同二年とされる。

宝永四年(一七〇七)検地と記す島原領内村明細帳によれば、杉山名・山寺名の二名に分れ、田七五一石余・八九町八反余、畑三四三石余・七八町二反余、新切高一五五石余(うち畑一四九石余)、高無九町二反余、百姓屋床八町七反余が地子免許、小物成は請山運上・山方銀(年々不定)、長崎に急用を村継ぎするため田畑四五町余が諸役免許。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]甲南町杉谷

そま川左岸、杉谷川沿いに位置。村域は南および西の山間部に広く及び、南の伊賀国境に岩尾いわお(四七一・一メートル)がある。集落は平地に里出さとで南出みなみで川北かわきた(中川と北出が合体)の三垣内、杉谷川をさかのぼって市之瀬いちのせ、さらに川上に杉谷新田があり、五垣内からなる。「御前落居記録」によれば、永享三年(一四三一)望月次郎左衛門尉重長が室町幕府被官上杉中務少輔持憲と「池原杣庄内椙谷村地頭職」をめぐって相論をしている。上杉氏は応永一二年(一四〇五)に幕府御教書を得て一円知行したと主張した。これに対して望月氏は正平六年(一三五一)足利尊氏の下文によって地頭職に補任されたが押領されたと主張し、永享三年一一月二七日幕府は両者の領域が異なることを認め、結局望月氏の勝訴となった。永正一〇年(一五一三)二月二〇日の聖禅庵私領畠売券(山中文書)に「杉谷ホク院」とみえる。

慶長五年(一六〇〇)幕府領、元禄八年(一六九五)水口藩領となる。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]菰野町杉谷・根の平ねのひら

馬場ばんば村の西北、釈迦しやかヶ岳(一〇九二・二メートル)の東麓に位置し、朝明あさけ川支流杉谷川が村域を東流する。村の東方を巡見街道が走る。鎌倉時代この地には阿弥陀堂があり、藤原実重は天福元年(一二三三)の米五升のほかしばしば祈祷料を寄進した。嘉禎二年(一二三六)には堂の修理のために米二二石四斗五升、牛一、銭五〇〇、布一反、紙四帳などを、また同四年春には阿弥陀仏に箔を押す費用として黄金一両、銭三貫などを支出している(「藤原実重作善日誌」四日市市善教寺蔵)。室町・戦国期には、八風はつぷう越の要地でもあり、近江の保内商人の活動と関係が深かった。彼らは商業路の確保のために、員弁いなべ郡役銭・朝明郡役銭を支払っているが、朝明郡役銭三二〇文の受取人は杉谷の常心であった(永禄元年一一月一七日「保内商人申状案」今堀日吉神社文書)

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]峰山町字杉谷

竹野川の支流鱒留ますどめ川と小西こにし川に挟まれて樹枝状に東西に延びる丘陵と、小西川北側の杉谷山に挟まれた沖積地に位置する。小西川を挟んだ丘陵には、西谷山にしたにやま古墳群(七基)および杉谷山古墳群がある。西谷山古墳群の一号墳(西谷山古墳)は全長七〇メートルの前方後円墳で、四世紀後半のものとされる。杉谷山古墳群は杉谷の北側にあり二〇基を数え、また愛宕あたご山丘陵にも八基の古墳群があり、当地辺りの集落形成の古さを推察させる。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]清水町杉谷

三方みかた丘陵の南西麓にあり、西から北にかけては三留みとめ村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では三戸部みとべ郷に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方五一三石余・畠方一〇五石。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となった。「越前地理指南」は「深田六七町アリ」と記す。

年次不詳の「乍恐以書付歎願奉申上候」(千秋家文書)によると、当村と田尻たじり村・下天下しもてが村・上天下村の四村は、耕作の合間に菅笠を作り、足羽あすわ江守えもり(現福井市)の七大夫に引渡してきたが、七大夫の不法な商売によって菅笠相場が引下げられ、銀五、六十貫匁の損分を受けて飢渇する者も生じ、七大夫打毀の動きも起きているので、七大夫の悪商法を停止させてほしいと嘆願している。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]富山市杉谷

呉羽山くれはやま丘陵の南西端、杉谷丘陵の谷間の微高地に位置し、北は古沢ふるさわ村、西は北押川きたおしかわ村。地名は古くから杉が繁茂していたことに由来するという(婦負郡志)。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(岐阜県小池家文書)婦負郡杉谷とみえ、小池弥七郎は同地の一一五俵など都合二〇〇俵を佐々成政から与えられている。婦負郡に属し、寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。正保郷帳では高二一八石余、田方九町・畑方五町五反余、新田高二九石余。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]芦北町花岡はなおか

佐敷さしき城跡の西麓に位置し、小村のかば(椛)しま村を含む。「熊本藩年表稿」に元文四年(一七三九)佐敷椛島の猟師が子鯨を打殺すとあり、また葦北郡海陸持口御手当帳(芦北町誌)に「杉谷新地舟着場」とあるように、江戸中期以前は佐敷川河口の入江に面していた。佐敷手永に属し、高六石四斗余の小村だが、「国誌」は「昔日ハ佐敷川ヲ限リ、西ノ方花岡ノ古城山谷町山等モ皆杉谷村ノ地ナリシカ、近世ニ到リ地ヲ分ツト云」とする。現在も杉谷や椛島かばしまは小字名として残るが、その前の平地は宝暦一三年(一七六三)から天明八年(一七八八)まで三回にわたり干拓されたもので(芦北町誌)御側開おそばびらきの地名が残る。

杉谷村
すぎやむら

[現在地名]掛川市杉谷・杉谷一―二丁目・青葉台あおばだい

小笠おがさ山の北東麓にあり、西は上張あげはり村。かつては杉ヶ谷・すげとよんだという(掛川誌稿)。文禄二年検地高目録に「杉谷村」とみえ、高二五六石余。正保郷帳では田方二二六石余・畑方三九石余、掛川藩領、ほかに法念ほうねん寺領二石余がある。国立史料館本元禄郷帳でも同藩領。「掛川誌稿」では旗本井上・太田の二家の相給。旧高旧領取調帳では浜松藩領一八九石余・旗本太田領七七石余、法念寺除地二石余。「掛川誌稿」では家数二七。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]今庄町杉谷

田倉たくら川の最上流にあり、四周を山地に囲まれる。谷川を経て南東方は瀬戸せと村に、北東方は杣木俣そまきまた村から大坂おおさかを越えて池田いけだ(現今立郡池田町)に通ずる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では南仲条郡「たくり部都部べとべ郷」に含まれたが、正保郷帳以後は池田谷の一部として今南東郡(現今立郡)に村名がみえる。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、元禄五年(一六九二)土岐頼殷領、享保六年(一七二一)以降鯖江藩領。

元禄八年の村明細帳(「池田町史」所引)によれば田畑二五町一反余、うち田方七町五反余・畠方一七町五反余、家数二二・人数一四二・牛馬九で米作のほか養蚕も行われ、池田谷を経て粟田部あわたべ(現今立郡今立町)方面に売りさばかれた。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]加茂川町杉谷

備前国北端、溝部みぞべ村の北東、美作国真島ましま上山うえやま(現真庭郡落合町)の南に位置し、集落は旭川の支流曾母谷そぼたに川の最上流にある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一七三石余。寛永七年(一六三〇)の検地では朱印高のほか改出高六二石余(貞享元年「津高郡高目録」池田家文庫)。「備陽記」によれば田畠二二町九反余、家数五六・人数二三四。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高三〇九石余、蔵入と家臣二名の給地。二口高二三七石余、残高二〇三石余、田方一〇町九反余・一三九石余、畑方一三町三反余・六四石余、家数三八、うち社方二、人数一五〇、うち社方一〇、牛一八、池二、百姓自林一一町六反余、育麦蔵一、猟師鉄砲五。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]森山町森山杉谷名もりやますぎたにみよう

森山村の南東に位置し、東を有明川が流れる。備後びんご崎は児島三郎高徳の残党の穴居地であったという。江戸時代は諫早いさはや郷に属し、肥前佐賀藩親類同格の諫早家領。正保国絵図に「杉谷村」とみえ、高二五石余。元禄国絵図でも高二五石余。宝暦二年(一七五二)の佐賀領郷村帳などには村名がみえず、諫早家領では森山村内として把握していたと考えられる。安政五年(一八五八)備後開が完成。文化二年(一八〇五)土橋貞恵(永春)が当地に医を開業し、質素倹約をこととし、その富は貧民救済や、郷学好古館(現諫早市)への田地一〇町余の寄付などの教育事業のほか、森山村内の溜池二ヵ所、諫早領南目道筋の改修、諫早のくじら橋・田代たしろ橋、森山村の多助たすけ橋などの石造架橋といった土木事業などに費やした。

杉谷村
すぎやつむら

[現在地名]君津市杉谷

新御堂しんみどう村の東に位置する。永禄二年(一五五九)の北条氏所領役帳に上総「杉谷村」とみえるのは当地と考えられ、玉縄衆の朝倉右馬助が二五貫文を知行していた。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二〇〇石余。文禄元年久保氏、元和元年(一六一五)旗本土屋氏、元禄一〇年(一六九七)同飯室氏がそれぞれ入り(「寛政重修諸家譜」など)、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では幕府領・飯野藩領と旗本土屋領・同久保領。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]福井市杉谷町

じよう山東麓にあり、東は浅水あそうず川を境に中荒井なかあらい村・今市いまいち村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では冬野ふゆの村に含まれる。正保郷帳から村名がみえ、田方四一三石余・畠方三〇六石。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]岡山市杉谷

日近ひぢかい村の東、標高二〇〇メートル前後の山の谷間にある。慶長六年(一六〇一)木下家定に「杉谷」一七三石余が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。寛永備中国絵図でも同高で足守藩領。幕末まで同藩領。正保郷帳には枝村として松才村を記す。貞享二年(一六八五)の賀陽郡・上房郡寺社改帳(総社市史編さん室蔵)によれば、高三一六石余、家数四三・人数二三五、枝村は「松さい」。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]東吉野村大字杉谷

伊勢南街道に沿い、高見たかみ峠の西方、杉谷川流域にある。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「杉谷家十四五、下司兵衛二郎芳野方(中略)天文十六年後七月廿日」とある。

小川おがわ郷のうち。慶長郷帳では村高九四・九〇一石、うち九一・二七石は旗本辻子和泉領、三・六三一石は幕府領(代官辻子和泉)の相給村。

杉谷村
すぎたにむら

[現在地名]江府町杉谷

南西流する船谷ふねだに川流域に位置し、南は宮市みやいち村、西は貝田かいだ村。拝領高は四一石余、本免は六ツ五分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高九九石余、竈数二六。「伯耆志」では林一四町一反余、家数二六・人数一一三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報