杉平村(読み)すぎだいらむら

日本歴史地名大系 「杉平村」の解説

杉平村
すぎだいらむら

[現在地名]作手村杉平

見代けんだい村の東北、ともえ川に沿い、川の両岸耕地がある。東南は雁峯かんぼう山系の山間部にもわずかながら耕地を開き、広大な山地をもつ。慶長七年(一六〇二)より作手藩領、同一五年より幕府領、天和元年(一六八一)より鳥羽藩領、享保一一年(一七二六)再び幕府領に復し、天明二年(一七八二)より巨勢氏領、文久元年(一八六一)よりまた幕府領となり幕末に至る。

杉平村
すぎのだいむら

[現在地名]山北町杉平すぎたいら

雨乞立の南東麓、小俣おまた川右岸に位置する。対岸は遅郷おそのごう村、下流は温出ぬくいで村。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「之だい村 中」とあり、本納七石六斗九升五合・縄高七石二斗四升八合六勺、家一〇軒とある。正保国絵図に「杉平村」とあり高八五石余。正徳六年(一七一六)の村明細帳(山北村郷土史)では家数一五、馬七、百姓山のうちに山畑三反余があった。また御林があった(寛延三年「村明細帳」同書)。享保一八年(一七三三)の年貢割付状(同書)によれば船頭米・大豆・真綿・漆・蝋などを納めるほか、鮭川役・刈干代・入木代・鉛駄賃・縄代などの定納、大工役一人分を負担する。文政五年(一八二二)当村と岩石がんじき村との間に山論が起きている。

杉平村
すぎだいらむら

[現在地名]明智町杉野すぎの

明知あけち村の北にあり、北西野志のし村、東は門野かどの村に接する山中の小村。慶長郷帳杉原村とあり、高七五石余。正保郷帳では田方五三石余・畑方二二石余。文化一三年(一八一六)の村明細帳(明智町誌)によれば、川筋井堰一〇ヵ所があり、用水掛高三三石余、井堰管理は大事な仕事であった。文政三年(一八二〇)の家数一六・人数六四(「村歳代日記帳」佐々木文書)。山論も多く、野志村と争い、天保六年(一八三五)には村内安住あんじゆう寺と村方で木草につき争い、知行所扱いとなる。

杉平村
すぎひらむら

[現在地名]輪島市杉平町

河井かわい町の南、河原田かわらだ川下流東岸平地・段丘に立地。正保郷帳に村名がみえ、高四一〇石余、田方二三町一反余・畑方四町二反余。承応三年(一六五四)の村御印の高四一二石余、免六ツ一歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四二五石、免六ツ四歩、小物成は山役一六〇匁、苦竹役一匁(出来)、漆役二匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)。延宝二年(一六七四)の百姓家数三九(「村々肝煎給米等付帳」円藤文書)

杉平村
すぎひらむら

[現在地名]美杉村杉平

伊勢地いせじ川上流の河岸段丘上にあり、東は石名原いしなはら村、南はたけぼら山地。村内を東西初瀬はせ(伊勢)本街道が通ずる。近世は慶長一三年(一六〇八)以降津藩領。寛延年中(一七四八―五一)の家数三〇、人数一二五、馬二、牛七。寺は栄昌寺(浄土宗)が知られる(宗国史)

杉平村
すぎだいらむら

[現在地名]麻生町杉平

くら川左岸にあり、東は板嶺いたのみね村、西は四鹿しろく村。中世は小牧こまき郷のうちにあり、小高氏の支配下にあった(新編常陸国誌)。戦国末期に佐竹氏鹿島・行方征服で同氏の支配地となったが、同氏秋田移封後は麻生藩支族の旗本新庄氏の知行所となり、天明八年(一七八八)の邑々永方取立帳(根本家文書)には当村の納入分は金二分と永三一九文、寛政三年(一七九一)の米永皆済改帳(同文書)には九・八石余と金三分、永六七三文とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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