本興寺(読み)ほんこうじ

精選版 日本国語大辞典 「本興寺」の意味・読み・例文・類語

ほんこう‐じ【本興寺】

[一] 静岡県湖西市にある法華宗陣門流の総本山別院。山号は常霊山。永徳三年(一三八三)創立。開山は日乗。書院の障壁画谷文晁筆。通称文晁寺
[二] 兵庫県尼崎市にある法華宗本門流大本山。山号は精進山。応永二七年(一四二〇細川満元が創建。開山は日隆。後奈良天皇の勅願寺勧学院を開き、同流教学の中心であった。

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日本歴史地名大系 「本興寺」の解説

本興寺
ほんこうじ

[現在地名]尼崎市開明町三丁目

江戸時代のてら町の東部にある。法華宗(本門流)大本山。精進院と号し、本尊は題目宝塔・多宝如来・釈迦如来。元和(一六一五―二四)以前は現在地の東方、江戸時代の尼崎城地に大部分が取込まれる位置にあった。法華宗本門流の開祖日隆が西国への布教活動のため応永二七年(一四二〇)尼崎に至り、たつみ浜の次郎五郎宅に逗留中に摂津守護細川満元の外護を得、八幡宮の社地に一宇を建立したのが始まりとされる(両山暦譜)。日隆は摂津兵庫の久遠くおん寺、備前牛窓うしまど(現岡山県牛窓町)本蓮ほんれん寺、讃岐宇多津(現香川県宇多津町)本妙ほんみよう寺など交通の要所に寺院を創建しており、港湾都市尼崎に着目したのであろう。京都本能寺と並ぶ本門流の大本山で、本能寺が布教の道場であったのに対し、享徳三年(一四五四)寺内に歓学院が設置され、当寺は教学の根本道場となった。塔頭は一六坊を数え、中世後期の尼崎の中核的な寺院として推移した(両山暦譜)

天文年間(一五三二―五五)には三好・塩川・伊丹氏ら摂津の有力国衆から徳政免許や諸役免除等を内容とする禁制が当寺に付与され(同一八年四月六日「伊丹親興禁制」本興寺文書など)、同一九年には三好長慶と対立していた伊丹親興の和睦会見場所となっている(細川両家記)。摂津国衆から付与された禁制は当寺と門前、あるいは西門前に対して出されたものであり、この頃には寺域の西側を中心に門前町が発達していたとみられる。

本興寺
ほんこうじ

[現在地名]湖西市鷲津

浜名湖に面した丘陵にある。法華宗(陣門流)の総本山別院で、常霊山と号する。本尊は大曼荼羅。桜の名所で、湖上はるかに富士山を望む。永徳三年(一三八三)に越後国本成ほんじよう(現新潟県三条市)の日陣が東海地方に教化に来たとき、真言宗の日乗が改宗して開山となったと伝える。文明四年(一四七二)一一月二六日に日暹が当寺鎮守を造営した棟札、同七年一二月一三日の日暹置文(本興寺文書、以下断りのない限り同文書)が残る。日暹に帰依した三河国上之郷かみのごう(現愛知県蒲郡市)の鵜殿氏は外護者となり、また同氏から住職も出している(「鵜殿日濃寄進法華経奥書」など)。明応八年(一四九九)六月一日に飛鳥井雅康は富士山遊覧の途中で本興寺法華堂に一宿し、堂の柱に「たひ衣わしつの里をきてとへは霊山説法の庭にそ有ける」と記している(富士歴覧記)

本興寺
ほんこうじ

[現在地名]武生市国府一丁目

法華宗(真門流)。本尊は十界大曼荼羅。当寺の由緒書によれば、もと真言宗興隆こうりゆう寺と号した。延徳元年(一四八九)京都本隆ほんりゆう(現京都市上右区)開山の日真が来寺して法論し、論破された吉蔵坊法印は改宗して本行院日源と号した。日真の帰洛後、本行院・興隆寺の各一字を取って本興寺に改号したという。しかし、天文一二年(一五四三)一乗いちじよう(現福井市)に来住していた儒者清原宣賢を訪れた孫の枝賢が、五月五日、府中ふちゆう(現武生市)祭見物のため法華宗興隆寺内の法華堂(現存)の行光坊に宿泊したことが、彼の日記「天文十二年記」(舟橋家蔵)に記されているので、現寺号への改称はこれ以後ということになる。

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デジタル大辞泉プラス 「本興寺」の解説

本興寺

静岡県湖西市にある寺院。1383年開山。小堀遠州作と伝えられる庭園がある。本堂は国の重要文化財に指定されている。

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世界大百科事典(旧版)内の本興寺の言及

【湖西[市]】より

…入出,鷲津を漁港とする湖内漁業は,エビ,カニの水揚げが多く,ウナギを中心とする養殖業も盛んである。鷲津にある法華宗本興寺本堂は重要文化財。小堀流の名園と谷文晁作の四季山水障壁画は広く知られる。…

※「本興寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」