木津城跡(読み)きづじようあと

日本歴史地名大系 「木津城跡」の解説

木津城跡
きづじようあと

[現在地名]鳴門市撫養町木津

JR鳴門線教会前きようかいまえ駅の北側約五〇〇メートル、標高六四メートルの独立した小山にある山城跡。南は断層崖に面していて急斜面で、北側は中山谷なかやまだに川が城山の裾を洗うように流れている。この谷川は城の防御のために人工的に流路を付替えたようである。また城山東側の孫右衛門まごえもん山と城山西の小山の間にある二ヵ所の谷も、少し手を加えて空堀として利用したようである。城山には東西二つの曲輪を配し、その下方に空堀をめぐらしていた。しかし昭和三三年(一九五八)に鳴門市の上水道配水池が山頂に造られ、その後城山の周囲の斜面が採土のために崩されてしまったため、現在は堀の一部が残るのみで他の遺構はほとんど残っていない。

戦国時代に篠原肥前守(肥後守とも)がいた(城跡記・古城諸将記)。永禄五年(一五六二)三月五日に勝瑞しようずい(現藍住町)三好義賢(之虎)が泉州久米田くめだ(現大阪府岸和田市)合戦で戦死した後、肥前守は剃髪して自遁と称していたが、その後義賢室大形殿との間によからぬ噂が立った。

木津城跡
きづじようあと

[現在地名]木津町大字木津 片山

片山かたやま東側の南北に延びる丘陵しろ(一〇六メートル)の頂上にある。西・北は眼下木津郷木津川を望み、奈良街道を押え、東は市坂いちさか鹿背山かせやまを結ぶ谷筋道を押える要衝の地にあった。

初見は「経覚私要鈔」文明三年(一四七一)四月二二日条に「終日木津打出、椿井、高林、延命寺等、西方焼払云々」とみえる。応仁の乱による木津を舞台とする東西両軍の合戦は、文明二年大内勢の進出に始まり、その戦乱の様子は「大乗院寺社雑事記」「経覚私要鈔」などの同七年五月、同九年一〇月から一一月、同一五年五月、山城国一揆の成立する同一七年の間に散見される。

木津城跡
きつじようあと

[現在地名]網野町字木津

今井いまい集落の南方山頂にある。多くの郭と堀切・土塁を設けた堅固な室町期の山城である。元弘三年(一三三三)五月二〇日付熊谷直久軍忠状(熊谷家文書)に「同十四日、木津庄毛呂弥八郎破城畢」とある城をこの城に比定する説がある。

「丹後旧事記」によれば、天正(一五七三―九二)頃の城主は赤尾但馬守であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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