木古内村(読み)きこないむら

日本歴史地名大系 「木古内村」の解説

木古内村
きこないむら

[現在地名]上磯かみいそ郡木古内町字木古内・字瓜谷うりや・字大川おおかわ・字大平おおひら・字新道しんみち・字建川たてかわ・字鶴岡つるおか・字中野なかの・字本町ほんちよう・字前浜まえはま

近世から明治三五年(一九〇二)まで存続した村。現町域の南端に位置し、北は札苅さつかり村、東は津軽海峡に臨む。大平川・佐女さめ川・建有たてあり川や木古内川とその支流中野川・瓜谷川などの流域を占め、海岸部は海崖が迫るが、木古内川下流部から河口一帯は比較的平地がある。「地名考并里程記」は「喜子内」の地名について「夷語リコナイなり。登る沢と訳す。リコとは高く登ると申事。ナイは沢の事にて此沢辺自然と高く上る故に地名になすといふ」と記す。「検考録」は「キコは木之子の略、上之国の南にも木之子村あり、木之子は菌なるへし」とする。康正三年(一四五七)コシャマインの戦の際、中野から逃れた者たちが移住したことに始まると伝える(同書)。中野にはいわゆる道南十二館の一つ中野館があり、館主は佐藤三郎左衛門尉季則であったという(新羅之記録)

シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」の「松前より下狄地所付」に「ちこない」とみえ、「是迄三里 川有 狄おとなオヤツフリ」と記される。家四、五軒があった。「狄蜂起集書」は「ちこ内」とする。元禄郷帳の「従松前東在郷并蝦夷地之覚」に「きこない村」、享保十二年所附には「喜古内村」、天保郷帳の「従松前東在」に「木子内村」と記される。享保二年(一七一七)には「喜古内山」は鷹打場所(松前蝦夷記)。「松前随商録」によれば「キコナイ」は松前貢支配、産物は昆布・鰊・雑木・鮭、「秋味不残知行ヘ納ル」と記される。天明年間(一七八一―八九)は五〇戸弱・二〇〇人弱(蝦夷拾遺)。寛政三年(一七九一)には松前貢の給地で家数三〇、名主は佐次兵衛(東蝦夷地道中記)

前掲地名考に「家木・船皆具・薪等伐り取、其外年中鰯漁を重ニいたし」とあり、出稼と鰯漁を生業にしていたが、「春中は西蝦夷地江鯡出稼、夏中より初秋まては為出稼ヲサツベ辺江罷越す」と記されるように出稼が多かった。文化元年(一八〇四)四月羽大正養が箱館奉行として赴任。禁約を提示した正徳の条制を「申明」し(休明光記)、翌年高札を箱館から木古内に至る九ヵ所と、落部おとしべ(現八雲町)から石崎いしざき(現函館市)に至る一三ヵ所に建てた。

木古内村
きこないむら

明治三五年(一九〇二)から昭和一七年(一九四二)まで存続した村。明治三五年木古内村・釜谷かまや村・泉沢いずみさわ村・札苅さつかり村の四ヵ村が合併し、二級町村木古内村として成立。旧村名を継承した四大字で編成、函館支庁に所属する。大正一一年(一九二二)から渡島支庁下となる。明治三六年木古内市街地で大火があった。同年トラピスト修道院(現上磯町)のバター製造を機に、木古内、大野おおの(現大野町)七重ななえ(現七飯町)亀田かめだ(現函館市)知内しりうち(現知内町)各村の搾乳が奨励され、同三八年同修道院が木古内村に乳牛買入所を設けた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報