月岡村(読み)つきおかむら

日本歴史地名大系 「月岡村」の解説

月岡村
つきおかむら

[現在地名]三条市月岡・曲渕まがりふち二―三丁目

五十嵐いからし川左岸、諏訪すわ新田の南にあり、西は片口かたくち村、東は五十嵐川を隔てて中新ちゆうしん村。天正二年(一五七四)の安田氏給分帳(北方文化博物館蔵)によると、井口弥三郎・田那部三郎兵衛ら一〇人余の安田氏家臣の給分が月岡にあり、浄福じようふく寺・乗福じようふく寺なども記される。山吉氏家臣の給分を記した同五年の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)には近藤図書助分・小鷹弥三郎分として月岡村がみえ、当地は安田氏と山吉氏の双方の勢力下にあったことがわかる。なお三条衆給分帳によれば大面おおも庄に含まれた地であった。また文禄三年(一五九四)とみられる安田堅親知行定納覚(大見安田氏文書)には「百八拾壱石三斗五升 月岡村」「右之外八貫文之所 同村永不作」とある。南方、現南蒲原みなみかんばら下田しただ村との境の山稜には戦国期とみられる山城跡がある。


月岡村
つきおかむら

[現在地名]富山市月岡町など

だんノ山南側に位置し、南は上千俵かみせんびよう村。「越中志徴」に「此村は月岡池と称する池あり、故に邑名とすと云へり」と記される月見つきみが池が壇ノ山東側にあり、月岡野で最も早く開かれた地とされる。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高七四石余、田方四町八反余・畑方一反余。


月岡村
つきおかむら

[現在地名]豊浦町月岡

真木まぎ山の南麓に位置する。北は岡屋敷おかやしき村、東は荒川あらかわ(現新発田市)、西は本田ほんだ村に接し、村内を荒川川が貫流する。慶長一五年(一六一〇)頃の新発田藩の給知方ほど役帳(新発田市史資料)に「おかやしきの内月岡村」とあり、七斗の炉役が四軒に課されている。正保国絵図には「岡屋敷高ノ内」とあり、岡屋敷村の枝郷であったと思われる。


月岡村
つきおかむら

[現在地名]八郷町月岡

小桜こざくら川左岸にあり、東は半田はんだ村、南は弓弦ゆづり村。戦国末期に佐竹氏の支配下に入り、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高四百十弐石八斗 此内七十八石七斗 荒 月岡」とある。江戸初期に下総関宿藩領(寛文朱印留)、貞享四年(一六八七)から土浦藩領となり(土浦市史)、のち旗本領となる。


月岡村
つきおかむら

[現在地名]菊川町月岡

加茂かも村東部の南、菊川に西方にしかた川が合流する地点の西に位置し、西は中内田なかうちだ村。正保郷帳に村名がみえ、田方一斗余・畑方五四石余、「日損」「はへ山」「芝山」の注記がある。旗本井上領。元禄郷帳・国立史料館本同郷帳・享保郷村高帳でも同高、同領主。


月岡村
つきおかむら

[現在地名]新井市月岡

せき川と渋江しぶえ川の合流点に位置し、西は北国街道沿いの柳井田やないだ村・栗原くりはら村に接する。正保国絵図に村名がある。天和三年郷帳によれば高二〇一石一斗、うち漆高一升五合とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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