春日城跡(読み)かすがじようあと

日本歴史地名大系 「春日城跡」の解説

春日城跡
かすがじようあと

[現在地名]望月町春日

蓼科たてしな山北斜面一支脈の末端に構築され、その南方二里余の山中に詰城の三沢穴小屋みさわのあなごやをもつ大規模な山城で、春日の穴小屋とよばれた(甲陽軍鑑・依田記)。本城は康国こうこく寺裏の山頂五町余の間に構築されており、四囲は険阻。三の郭(本郭)は南を大土塁で囲んだ東西一〇間、南北一五間。堀切二条をおいて、その北に東西五間、南北一〇間の二の郭、続いて東西一〇間、南北二〇間の一の郭を備え、各所に石畳と堀切をめぐらす(長野県町村誌)

春日城跡
かすがじようあと

[現在地名]佐野市若松町

慶長七年(一六〇二)佐野信吉築城を開始した平城春日岡かすがおか城・佐野城・うばヶ城ともいう。佐野川の左岸天明てんみよう宿の北に位置し、古くは旭岡あさひがおかと称した丘陵上にある。佐野氏の居城は代々唐沢山からさわさん城であったが、徳川家康は同年、信吉に春日岡への移城を命じた。移城の原因は江戸大火展望説・山城禁令説・豊家縁故説など諸説あるが、徳川氏の覇権確立とともにとられた山城廃止政策が適用されたと考えられる。信吉は同年春日岡に築城を開始、同一二年唐沢山城を廃し未完成の当城に移った。この築城に際し、春日岡にあった惣宗そうしゆう寺は現在の金井上かないかみ町に移され、出城的役割を果したという。

春日城跡
かすがじようあと

[現在地名]伊那市大字伊那 西町

伊那部いなべ宿の街道の西、段丘上にある。天保四年(一八三三)の「箕輪記」に伊那部春日氏古墟之図と題する見取図が所載されている。それによると、本丸東端、段丘崖上にあって、堀・土居・腰曲輪に囲まれ、二の丸は本丸を北から西に囲み、堀を隔てて三の丸が二の丸を西から囲んでいる。城の北側と南側は自然の堀であるが、本丸・二の丸・三の丸を隔てる人工の空堀の構えは大きい。西方に「昔ノ春日海道ノ跡アリ」と注記があり、城の構えから大手は西側にあったと考えられる。また、東側本丸の崖下に尾花崎おばながさきと称する外郭があり、城の北西に春日神社がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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