早川牧・早川庄(読み)はやかわのまき・はやかわのしよう

日本歴史地名大系 「早川牧・早川庄」の解説

早川牧・早川庄
はやかわのまき・はやかわのしよう

早川牧は早川流域の山野に成立したらしく、嘉保二年(一〇九五)一月一〇日大江公仲処分目録(県史一)の一四ヵ所の一つに「早川牧」がみえ、遠江守大江公資が藤原道長の子長家に寄進して本家と仰ぎ、自らは領家となり、以後、本家の地位は長家の娘婿藤原信長が継ぎ、領家は公資の子大江広経、次いで子の公仲が養子の以実に譲っている。しかしその後、公仲から改めて領家の地位を譲り受けたと主張する公仲の娘大江仲子と有経(以実)との間で、永久三年(一一一五)以前から相論が生じており、この時にはすでに「早川庄」と記されている(大治五年月日「大江仲子解文」県史一)。この間に田畠の支配や開発が進んで荘園化したものであろう。

吾妻鏡」文治四年(一一八八)六月四日条にも藤原基通の家領とみえるから、本家は摂関家に相伝されたようであるが、年貢は未進の状態で、事実上の支配権は鎌倉幕府手中にあり、同書治承四年(一一八〇)一〇月一六日条に載せる寄進状は当時のものではないにしても、すでに源頼朝が早川本庄を箱根権現に寄進していたことは認めてよいであろう。建仁二年(一二〇二)幕府は当庄の下地を中分して、田地一四〇町六反については預所土肥遠平の支配を停止して箱根権現に寄付した(同書同年五月三〇日条)。また頼朝の乳母あるいは父義朝の乳母ともいう摩々と名乗る尼が田地七町の作人として荘内に住み、頼朝はその所領に保護を加え、さらに三町の給田を与えて課税を免除している(同書養和元年閏二月七日条・文治三年六月一三日条・建久三年二月五日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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