久富名(読み)ひさとみみよう

日本歴史地名大系 「久富名」の解説

久富名
ひさとみみよう

菱刈ひしかり院の名とみられ、比定地未詳。久留名とも記される。嘉元三年(一三〇五)初め菱刈郡久富名内田畠屋敷および築地つきじ(現菱刈町)・桑田代村などの領有をめぐり、薩摩国御家人莫禰勤行養子平氏女と大隅国御家人曾木五郎太郎宗茂の間で相論が起きている。この過程で両者から出された訴状陳状によれば、宝治二年(一二四八)七月久富名本主慶阿(曾木入道)は曾木光茂(法名光蓮)に当名を譲与した。このとき慶阿は名内の田畠屋敷(宗茂の主張では田一町五反・屋敷一所)を勤行の妻女である姫若女に譲り、文永五年(一二六八)一二月には先の田一町五反に加え、当名八分の一にあたる名内桑田代村の田畠を同女に譲ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報