新木村(読み)あらきむら

日本歴史地名大系 「新木村」の解説

新木村
あらきむら

[現在地名]我孫子市新木・新木野あらきの一―四丁目・新木下あらきした

古戸ふるど村の東、利根川南岸にある。村のほぼ中央を成田に至る道が通り、明治一〇年代の二万分一迅速測図では集落東部より南の手賀てが沼に向かう里道が沼べりまで延び、対岸布瀬ふぜ(現沼南町)には千間せんげん渡と記されている。地内の五郎地ごろうちに荒木三河守を城主とする新木城があったと伝える。柴崎しばさき城に同氏が移った後はその配下の田口内蔵助が留守を守っていたが、天正一八年(一五九〇)廃城になったという。慶安期(一六四八―五二)とされる高城胤忠旧知行高付帳に村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四六四石余で幕府領。宝暦元年(一七五一)には田三三町五反余・畑四七町九反余・屋敷五反余、高四九〇石余(湖北村誌)

新木村
にきむら

[現在地名]田原本町大字新木

飛鳥川東岸、秦楽寺じんらくじ村西北方に位置。慶長郷帳の村高は二九八・八一石。うち一八九・四五石は旗本佐藤(継成)氏領。八八・二三石(のち八八・二六石)は旗本佐久間氏領から幕府領、天和二年(一六八二)近江国水口藩(加藤明友)領となったが元禄八年(一六九五)藩主転封に伴い下野国壬生藩領となり、正徳二年(一七一二)以降幕府領。二一・一三石は幕府領(代官角南主馬)ののち元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となったが、その後郡山藩の二割半無地高増政策で二六・四一三石と増え、当村の総村高は三〇八・一一一石となる。

新木村
にきむら

[現在地名]大和郡山市新木町

田中たなか村東方に所在環濠集落。「日本書紀」天武天皇一一年三月条の「新城」、「続日本紀」宝亀五年(七七四)八月の「新城宮」に推定される(大和志)。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「新木庄 八幡社九月六日神事」とある。

慶長郷帳にみる村高五九八・四一石。江戸時代の初め小泉藩(片桐貞隆)領。元和五年(一六一九)小泉藩と郡山藩の村替により郡山藩(松平忠明)領に編入された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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