新庄宿(読み)しんじようしゆく

日本歴史地名大系 「新庄宿」の解説

新庄宿
しんじようしゆく

[現在地名]新庄村 上町本町中町など

江戸時代に定められた出雲往来宿駅で、西方伯耆国板井原いたいばら宿(現鳥取県日野郡日野町)四十曲しじゆうまがり峠を間に置いた対向峠下の宿。街道沿いに街村を形成し、新庄村域の盆地の南入口に位置する。南東美甘みかも宿(現美甘村)へ一里一〇町。板井原宿へ二里(作陽誌)。寛永六年(一六二九)に三二戸が焼失した記録(前田文書)があることから、寛永初年にはすでに小集落が形成されていたと考えられ(新庄村史)、寛文期(一六六一―七三)山陰地方の本陣(板井原宿・根雨宿)が出雲松江藩の援助で、参勤交代のため専用の御茶屋を設けるというかたちで成立したことから(久世町史)、ほぼ同時期に宿場町としての形態を備えるに至ったと考えられる。

新庄宿
しんじようしゆく

羽州街道の宿場で、南は二里八町で舟形ふながた宿(現最上郡舟形町)、北は三里二三町で金山かねやま宿(現同郡金山町)に続く。もと羽州街道は東山山麓を通っていたが、寛永二年(一六二五)戸沢氏により新庄城下が整備されるとともに、城下に引込まれ、街道筋が城下の町人町として繁栄した。本陣は北本きたほん町は中島惣内、南本町は伊東弥三右衛門で、ともに問屋を兼ねた。伝馬役は十日町とおかまち村分では北本町・よこ町・万場ばんば町の三町が勤めている(安政六年「北方軒別改帳」吉村文書、五日町村分では南本町のほかは不詳)金山宿との間には広漠たる原野が広がっていたため、新田開発の拠点を兼ねて、泉田いずみた赤坂あかさかの二集落をたて、間の宿とした(増訂最上郡史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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