新川村(読み)につかわむら

日本歴史地名大系 「新川村」の解説

新川村
につかわむら

[現在地名]宮城町新川

作並さくなみ村の南、広瀬川の支流新川川流域に位置する山村。名取郡に属し、東は同郡長袋ながふくろ(現秋保町)、南は同郡馬場ばば(現同上)、西は出羽村山むらやま山寺やまでら(現山形市)とそれぞれ山嶺をもって境する。山寺から新川の初小屋はつのこやに抜ける約二キロの山道がある。この道はもと小右衛門こうえもん道ともよばれ、時代は不明だが山寺(立石寺)千手院の後藤長右衛門の先祖が開削したと伝える。明治一二年(一八七九)頃長右衛門が改修、さらに山形の漢方医安孫子駒吉が自費を投じて迂回路を直線路に改修したり、橋の架替えなどをし、こま新道とよばれるようになった(宮城町誌)。地名の由来は伝えによれば、現在新川集落の山際を東流している宮沢みやざわ川の水源地が沼山ぬまやまという所で、この沼山に大きな沼があった。連日の豪雨でこの沼が決壊して下流一円が氾濫、新たに大きな川に変わったので新川という名称が生じたという(宮城町誌)

中世には、秋保あきう郷秋保五ヵ村として長袋を根拠地とする秋保氏の支配下にあった(「歴代系図」秋保神社蔵)。秋保氏の分家と伝える当地境野家の歴代事跡考(境野剛家文書)によると、永禄一一年(一五六八)秋保勝盛の実弟平六郎盛久が境野さかいの(現秋保町)・新川村二ヵ村を勝盛より分知され、前掲系図によると勝盛が伊達政宗に属して知行を与えられた際にも、政宗に願って前記二ヵ村を弟平六郎に分知したという。

新川村
あらかーむら

[現在地名]石垣市新川あらかわ

四箇しいか村の一。石垣いしやなぎい村の西に隣接する。西に観音かんのん崎が突き出し、三角状の村域をなす。東を除いて海に面し、南西海上約六キロに竹富たけとみ(現竹富町)がある。北部に前勢まいし(一九七・四メートル)があり、南東隅にある集落前方の浜を長崎なーさきい浜という。古く集落は東からウラバルパカ、ターブナーパカ、キダムリィパカ、タキニシィミユトゥパカ、タキニシィウフパカ、アラカーフウパカ、ンナティーマスイパカの七つのハカに区画されていた。ちなみに雍正五年(一七二七)石垣村平川ぴいさがーから慶田盛きだむりいの前まで馬場が設けられ(八重山島年来記)、キダムリィパカには真乙姥まいちいばー御嶽がある。八重山歌謡「慶田盛ぬくんちぇーまゆんた」に謡われる慶田盛井の水は、当村の豊年祭や重陽の節句などで神前に供えられるという。弘治一三年(一五〇〇)のオヤケアカハチ事件で八重山に遠征した首里王府軍二隊のうち一隊は「新河」から攻め入ったという(「球陽」尚真王二四年条)真乙姥御嶽は王府軍の協力者長田大主の妹真乙姥の墓を御嶽としたもの。

新川村
につかわむら

[現在地名]新里村新川

武井たけい村・つる村の東に位置し、東は大間々おおまま(現山田郡大間々町)。北部・西部は丘陵地であるが、現新里村のなかでは最も平坦地である。現高崎市山名やまな町にある山上やまのうえ碑碑文中に「新川臣」がみえ、当地との関係が考えられる。平安後期には新田につた庄に含まれており、嘉応二年(一一七〇)の目録をもとに享徳四年(一四五五)に作成された新田庄田畠在家注文(正木文書)に「さかいにとらる」の傍注を付した「につかハの郷」がみえる。田一七町一反余、畠一二町三反余、在家二六。年月日未詳の新田庄知行分目録(同文書)では「他庄被押領地之事」の一つとしてあげられ、「新河郷 山上へ押領」とある。

新川村
しんかわむら

[現在地名]春日部市新川

牛島うしじま村の北東に位置する。村の東側を庄内古しようないふる川が流れる。葛飾郡松伏まつぶし領に属した(風土記稿)。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(田園簿・改革組合取調書など)。田園簿には新川新田とあり、田四五石余・畑二四石余。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施され、明和三年(一七六六)には新田検地が行われたという(「風土記稿」など)。日光道中粕壁かすかべ宿の助郷村であったが(「村鏡類諸書物留書」中島家文書)、天明三年(一七八三)の浅間山噴火後、水利の悪化などを理由に、天保二年(一八三一)樋籠ひろう村などとともに当村は勤高一〇〇石のうち五五石分の休役願を出している(田中家文書)

新川村
にいかわむら

[現在地名]浮羽町新川

隈上くまのうえ川上流の山間に位置する。本高は四三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高五〇石・役高六八石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高七三石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田二町五反余・開田一二町八反余・畑田四町九反余・畑七町三反余・居屋敷三反余。旧高旧領取調帳によると高三〇〇石余。久留米藩内一三ヵ山の一つで、享保一九年(一七三四)の山役高五〇石、小物成は起炭六俵・鍛冶炭七俵、椎茸・木海月・灯松・蕨縄、火縄一二曲など一九種で、小物成銀は六種を上納した(「生葉郡山中五ヶ村品々納物定格」田代家文書)

新川村
あらかーむら

[現在地名]南風原新川あらかわ

兼城かにぐしく村の北西に位置する村。尚敬王元年(一七一三)編集の「琉球国由来記」に南風原ふえーばる間切を構成する九ヵ村の一としてみえる。新川之殿を拝所として稲二祭が行われ、地頭が神酒や筵を捧げ、首里大あむしられや首里根神たちに馳走をしている。同書および「琉球国旧記」の同二〇年時点でも村がないとされる。「球陽」同二五年条には南風原間切田地のうち、首里との境界ではっきりしない土地は士族の屋敷地となったとあり、同三〇年条には江田(崎山)・新川の二村が衰微して百姓が離散し、そのため与那覇ゆなふあ宮城なーぐしく両村が南風原間切に戻されたとあることから、士農分離の一連の政策によって、新川の百姓は士族を指向し、首里側に移動したため村がなくなったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報