指町(読み)えさしまち

日本歴史地名大系 「指町」の解説

指町
えさしまち

[現在地名]魚津市真成寺町しんじようじまち

神明しんめい川左岸にあり、対岸下村木しもむらき村の安成あんじよう寺と大泉だいせん寺に通ずる道には安成寺橋・大泉寺橋が架けられている。東は真成寺町、西は下新しもしん町、南はてら町。元和年中(一六一五―二四)大坂の浪人佐生市郎右衛門(かつて鷹匠頭であったという)がこの地に居住して餌指頭になったのが町名の由来といわれ、一説に当町にあった牢屋付の足軽・小者が内職として鳥を差したことに由来するともいう。たて町ともよばれていた。魚津町方の万雑を二分三厘負担し、魚津町の町肝煎を補佐する組合頭を当町と川原かわら町とで一人選出している(魚津町誌)。天明五年(一七八五)魚津町惣絵図では安成寺橋の南の通りに餌指町とみえ、その南に一向宗栄明えいめい(現真宗大谷派)、同寺の西に牢屋が描かれ、それぞれ南で寺町の長教ちようきよう寺に接している。


指町
えさしまち

[現在地名]徳島市鷹匠町たかじようまち五丁目・栄町さかえまち五丁目・秋田町あきたまち五丁目・二軒屋町にけんやちよう一丁目

徳島城下最南端の土佐街道口にあたる勢見の金比羅せいみのこんぴら(金刀比羅)社下から、東方の堀淵に抜ける道筋(のちの日出小路)の南に並行する淡路あわじ(秋田町)までの通り筋。町名は鷹狩に使役する鷹の餌となる雀などの小鳥を捕らえる餌指役の組屋敷が置かれたことによる。寛永八―一三年(一六三一―三六)の忠英様御代御山下画図では当町一帯は宅地化されていないが、天和三年(一六八三)の渭津城下之絵図では町割が進展し、餌指の屋敷が形成されている。


指町
えさしまち

[現在地名]富山市中央通りちゆうおうどおり二―三丁目・堤町通りつつみちようどおり二丁目

石倉いしぐら町の南に並行して東西に延びる両側町。餌差町とも記され、本町のうち。西は室屋むろや町、東はいたち川に突き当り、橋を渡ると木場川原きばかわら町南端に至る(安政元年「富山城下絵図」県立図書館蔵)。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図にみえ、前田利次による町割当初からの町。藩の小者餌指らの居住地であったという。安永八年(一七七九)の本家数四六・貸家数四〇で、二丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)


指町
えさしまち

[現在地名]彦根市旭町あさひまち元町もとまち佐和町さわちよう

小道具こどうぐ町の南にあり、町名のとおり餌指方・鳥毛方などが居住した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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