押手村(読み)おしてむら

日本歴史地名大系 「押手村」の解説

押手村
おしてむら

[現在地名]清水町押手

杉野原すぎのはら村の北、板尾いたお村の東、有田川筋の山間部に立地。有田郡の東北隅にあたり、東は伊都いと簗瀬やなせ(現花園村)、北は同郡古向ふるむかい(同)。小名に東部とうぶ田尻たじり北野きたの(上下)横谷よこだに(上下)がある。

中世あてがわ上庄に属し、建久四年(一一九三)九月日の阿河庄定田地子検注目録案(又続宝簡集)のなかに押手があり、押手内の田地所在地名として北野横谷などがみえる。また文永四年(一二六七)五月一〇日の阿河上庄在家綿注文案(同集)に在家として「ヲシテニ四宇」とあり、「復検後逃亡」の項に「東キタノ綿三両田二反百歩」がみえる。

押手村
おしでむら

[現在地名]旭町押井おしい

矢作川の支流阿摺あすり川に注ぐ小沢こぞう川の水源に位置し、東は伯母沢おばざわ村・上伊熊かみいぐま村、南は二井寺にいでら村、西は小沢村・大垣内おおがいと村、北は太田おおだ村に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。現県道笹戸―稲武線が中央を東西に通じる。縄文時代晩期のあさ久保くぼ遺跡、時期不詳のみやまえ遺跡が山麓の傾斜地にある。浅ノ久保遺跡からは奈良・平安・鎌倉時代の遺物出土

押手村
おしでむら

[現在地名]上川村七名ななめ 押手

柴倉しばくら川右岸に位置し、北西安用あんよう村。「新編会津風土記」に家数二四、南の端村滝頭たきがしら新田(現滝首)は五、南西黒谷沢くろだにざわ新田は三とある。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「押出 四百廿五石二斗三升 御倉入」とあり、蒲生氏直轄領であった。元和六年(一六二〇)の漆木役は押手分として一千六〇一本五分(津川旧記)。貞享二年(一六八五)の地下風俗家業旧例改帳(玉木敏雄氏蔵)によれば雑紙役は二束で、耕作の合間に養蚕を営んで収納の足しにした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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