手野村(読み)てのむら

日本歴史地名大系 「手野村」の解説

手野村
てのむら

[現在地名]岡垣町手野

三吉みよし村の西、孔大寺こだいじ山北麓の平地(岡垣低地)に位置し、北部砂丘部の松原はおか松原(三里松原)の一部をなす。南東は高倉たかくら村、西は内浦うつら村。古くは天野とも記した。内浦村などと同様に平地部はかつて入海で、大磯・小磯・磯原いそはらなどの小名があった(続風土記)。大磯・小磯の小名は寛政(一七八九―一八〇一)頃にはなくなっていたというが(続風土記附録)、「地理全誌」は両所ともに村の北部にあると記す。南部の筋の尾すじのおという孔大寺山の渓流には高さ五尋の鮎返あゆかえり滝がかかる(続風土記拾遺)。えびねが多種みられた(続風土記)。集落は本村および小塀こべい(「こびい」とも)・薬師堂(薬師谷)にあり(続風土記拾遺)、「地理全誌」では久世原くぜのはるもみえる。中世には遠賀庄のうち。永禄二年(一五五九)宗像氏の家臣占部尚持は当主の氏貞に対して先知行地が悪所であると愁訴し、代所として「手野郷糟薗名之内壱町并屋敷一ケ所」を宛行われている(同年九月五日「宗像氏重臣連署奉書」新撰宗像記考証)

手野村
てのむら

[現在地名]一の宮町手野

阿蘇外輪山が火口原に突出たぞうはな古城こじようはなに囲まれ、東と南は三箇さんが村、西は尾籠おごもり村と接する。中世には阿蘇東郷内で手野郷とよばれ、鎌倉期には三宮方と中之寺方、南北朝期以降は本主方(三宮本知行)と大津留方に分れ、阿蘇社領として種々の賦課が課された(元徳二年一月一四日「阿蘇社造営料木第三箇度切符写」阿蘇家文書など)。建武三年(一三三六)三月一一日、権大宮司が沙汰する東郷の手野両郷二〇町などが、大宮司の私領から再び阿蘇社領に寄進編入されている(「阿蘇社領郷村注文写」同文書)。正平一九年(一三六四)一二月には「てのゝ大つるかた」は周防殿の給分で、故殿の時より足手(夫役)を賦課する権利をもっていることなどが報告されている(「阿蘇社領宮地四面内并郷々闕所注文」同文書)

手野村
てのむら

[現在地名]土浦市手野町

村の北西に位置し、南は霞ヶ浦に臨む。中世には台地上の字じよううちだてに小田氏の手野城があった。室町時代になると中根氏の居城となり、中根氏は佐竹氏に滅ぼされた。現在も湟塁の跡が残る(土浦市史)。天正一八年(一五九〇)に結城秀康領となり、文禄四年(一五九五)に検地が実施された(「県方集覧」酒井泉氏蔵)。その後土浦藩領となり、水戸街道の中貫なかぬき宿の定助郷を負担している。文化四年(一八〇七)二月には負担の苦しみを「東郷年番 手野村名主惣代 宅右衛門」は他村の名主とともに代官に訴えている(「乍恐以書付奉願上候」佐野克夫氏蔵)

手野村
てのむら

[現在地名]武蔵町手野

成吉なりよし村の西に位置し、麻田あさだ川と吉広よしひろ川が合流する武蔵川中流域の沖積平野に立地する。集落は川の両側山麓にある。応安八年(一三七五)八月二二日の尼正安遺領配分状(秋吉文書)に「手野田」とみえる。正保郷帳では武蔵郷に属し、田方三三三石余・畑方五九石余、茅山・柴山・新田がある。天保郷帳では高六八五石余。文化―安政年間(一八〇四―六〇)久保田くぼたの八坂社神官都留氏は父子二代にわたって寺子屋を開設、庄屋加藤氏も幕末から明治初年にかけて寺子屋を開いていた(武蔵町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報