内浦村(読み)うつらむら

日本歴史地名大系 「内浦村」の解説

内浦村
うつらむら

[現在地名]岡垣町内浦

手野ての村の西に位置する。湯川ゆがわ山の東麓から岡垣低地の西端部を占め、北部の海(響灘)沿いには砂丘(芦屋砂丘)が発達。北西ははら村、南西は垂見たるみ峠越で宗像郡池田いけだ(現宗像市)に通じた。集落は本村および名切なぎり平山ひらやま海蔵寺かいぞうじ谷の四ヵ所(続風土記拾遺)。古代の遠賀おか内浦郷(和名抄)、中世の内浦郷の遺称地。「続風土記」によれば、吉木よしき村の下から手野村・内浦村にかけての低地はかつて入海で、近世になっても田の底から蛤・牡蠣の殻が出たという。小早川時代の指出前之帳では内浦村の田二一町九反余(分米三四七石余)・畠三町五反余(分大豆一八石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高四八四石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高五〇一石余、家数三八・社一・寺三、人数二九四(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も五〇一石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数六六・人数二八〇、馬一〇・牛六五(別本「続風土記附録」)

内浦村
うちうらむら

[現在地名]天津小湊町内浦

大風沢おおびぞ川・開戸かいと川沿いの山間および内浦湾に臨む農・漁村。南は小湊こみなと村、西は天津あまつ村。小湊村から天津村へ抜ける伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通り、天保七年(一八三六)の勝浦町外五拾村組合絵図(米本家蔵)に馬継場とみえる。天正八年(一五八〇)八月一五日の正木頼忠寄進状写(誕生寺文書)によると、「内浦之郷小湊両谷田畠四拾石」と「海上拾石分」が誕生たんじよう寺に寄進されているが、同寄進状写は近世成立のもので寄進についての確証はない。慶長二年(一五九七)一一月二〇日の里見義康黒印状(武石文書)には「長狭郡内浦へ□□□□罷下、郷村百ママ不致迷惑様ニ取沙汰可申、又三日之内百性めしつれ、御礼申させへく候」とみえる。

内浦村
うちうらむら

[現在地名]穴水町内浦・由比ゆいおか

七尾北湾に面する小半島先端部に位置し、背後の急崖を上り、北西の丘陵を越せば川島かわじま村・大町おおまち村に至る。集落東のタケガ鼻をおきの崎とよび、かつて五輪塔があり、天明土師人が河内国から鋳物を伝えた発祥地と伝える(中居鋳物史)。建長三年(一二五一)九月二三日の三条公俊譲状案(醍醐寺文書)に、大屋おおや(現輪島市)内の地名として内浦とみえ、娘の祇女に一期の間譲っているが、同七年に公俊は一期の後は阿古(祇女の妹、土御門通教室)に譲るよう定めている。このため惣領の公為と真性(祇女)との間で相論となり、正嘉二年(一二五八)二月一一日、「大屋庄内鳳至院・深見・穴水」などを真性に安堵し、一期の後は阿古に譲るべしと裁決されている(「後嵯峨上皇院宣案」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報