成井村(読み)なるいむら

日本歴史地名大系 「成井村」の解説

成井村
なるいむら

[現在地名]出島村西成井にしなるい

北は上軽部かみかるべ村、西は宍倉ししくら村。江戸初期に水戸藩領となり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高一四〇九・三二石とある。正保三年(一六四六)領地替で水戸藩領を離れ(出島村史)、正徳期(一七一一―一六)土浦藩領となり(土浦市史)、弘化元年(一八四四)戸数は一〇二・人数二三八(「県方集覧」酒井泉氏蔵)元禄郷帳の村高は一千三三八石余で、天保郷帳では一千八三八石に増加するが、幕末には土浦藩領分一千三三八石余となる(各村旧高簿)

天保一〇年(一八三九)の成井村年貢割付帳(岡田家文書)に「上畑七町四反拾五歩 内弐反弐畝拾八歩 未分山根猪喰荒 畑三割引 当一年引」とあるように、近在の村村は猪鹿の害に悩まされ、退治に要する費用が当村だけでも年に五、六両に上っている(「猟師仲摩取極帳」同文書)

成井村
なるいむら

[現在地名]八郷町東成井ひがしなるい

ともえ川と園部そのべ川に挟まれた平坦な台地上にあり、西は真家まいえ村・山崎やまざき村。正和五年(一三一六)の安福寺鐘銘に「大工宍戸鳴井善性」とあり、「新編常陸国誌」は「鳴井」を当地にあてている。戦国末期に佐竹氏の支配下に入り、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高百九拾八石三斗 此内廿四石壱斗五升 なるい」とある。慶長七年(一六〇二)以降志筑しづく(現千代田村)に陣屋を置いた旗本本堂氏領となり(寛政重修諸家譜)元禄郷帳の村高は四二四石余、幕末に七七四石余に急増する(各村旧高簿)

成井村
なるいむら

[現在地名]下総町成井

名小屋なごや村の南東に位置し、南は埴生はぶ大室おおむろ(現成田市)。天正一九年(一五九一)二月の香取郡大須賀保内成井郷御縄打之帳(成井区有文書)が残る。同年七月の旗本神保氏宛の知行書立(千葉県の歴史)には「なるいの郷」とみえ、高三八六石余。以後幕末まで同領。元禄一〇年(一六九七)の田方新改帳(成井区有文書)では上田五畝余・中田四町五反余・下田八町四反余・下々田一六町九反余・永不田九畝余。同年の畑方新改帳(同文書)では中畑三町二反余・下畑二町一反余・下々畑八町一反余、屋敷一町四反余。同一三年頃の下総国各村級分では高三八六石余。

成井村
なるいむら

[現在地名]加古川市志方町成井しかたちようなるい

西山新にしやましん村の北西高御位たかみくら山の東に位置する。法華山谷ほつけさんたに川が南東流する。慶長国絵図に「なる井」とみえる。正保郷帳では田方一二一石余・畑方九石余。宝永二年(一七〇五)の村明細帳(原家文書)によれば田一四町九反余・分米一四四石余、畑二町五反余・分米一一石余、新田畑三町九反余・分米三三石余、小物成は口米・夫米・犬米・柿渋・草藁銀、家数五五(本百姓四三・水呑一二)、牛一九、池五(山之池・上之池・大向池・堂奥池・奥ノ池)

成井村
なるいむら

[現在地名]明野町成井

台地上に集落があり、村の西側は低地水田になっている。西と北は鷺島さぎしま村。江戸時代は天領旗本領で、元禄郷帳の村高は一四九石余。幕末は天領二二石余、旗本小林氏領六一石余、川副氏領五五石余、中西氏領一六石余、阿弥陀堂領一石余(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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