恒富村(読み)つねとみむら

日本歴史地名大系 「恒富村」の解説

恒富村
つねとみむら

[現在地名]延岡市恒富町・北新小路きたしんこうじ上大瀬町かみおおせまち新小路しんこうじ出口町いでぐちまち大瀬町おおせまち西小路さいこうじ永池町ながいけまち三ッ瀬町みつぜまち古城町ふるしろまち愛宕町あたごまち伊達町だてまち構口町かまえぐちまち浜町はままち若葉町わかばまち片田町かたたまち小野町このまち共栄町きようえいまち春日町かすがまち旭町あさひまち愛宕山あたごやま平原町ひらばるまち沖田町おきたまちつるおか一―二丁目・塩浜町しおはままち安賀多町あがたまち

延岡城下および出北いできた村の南、大瀬川下流域南岸平地と愛宕山北麓丘陵に立地。東は日向灘に面する。応永二六年(一四一九)三月八日に書写された今山八幡宮旧記(今山八幡宮文書)に「砦形仏性田三段」がみえ、永承元年(一〇四六)に日向国司海高時が今山いまやま八幡宮に寄進したとあり、現小野町砦形とりでがたに比定される。豊後街道が城下南端の大瀬川河岸から伊福形いがた村境へ南北に通り、水陸交通の便に恵まれていたが水害も多かった。当村と出北・三須みす・伊福形・土々呂ととろ鯛名たいな(含赤水)大貫おおぬき三輪みわ庵川いおりがわ加草かくさ(現門川町)の恒富組一〇ヵ村の中心村で、大庄屋(頭庄屋)が置かれていた(延陵旧記)。恒留とも記した。城下日向ひゆうが口を出て大瀬川を渡った川沿いには延岡藩有馬氏時代には家中屋敷町(のち新小路・新名小路・川南小路など)が形成され、さらにその周縁の恒富村本村および枝村の三瀬・伊達・平原などにも中間・足軽・鷹師・道具師・餌差などの下級家臣が混住していた(「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」明治大学刑事博物館蔵)

寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)に村名がみえ、高一千五五七石余。万治四年(一六六一)の延岡藩村高内検高覚では内検高二千四八八石余。

恒富村
つねとみむら

[現在地名]山口市大字黒川くろかわの一部

いま山の西南麓、高倉たかくら山の北西部の平地で、吉田よしだ村の南に続く。その南は小郡宰判鋳銭司すぜんじ村。山口宰判所属。

建久八年(一一九七)に平子重経が地頭に任ぜられた恒富保(三浦家文書)の地で、中世を通じ重経の次子重継の系統が伝領。一族は地名を負い恒富を姓とした。

慶長一五年(一六一〇)検地帳では、恒富・平野ひらの吉野よしの三村を合石、総石高一千七四三石余と記す。うち田が一六二町余で一千五三八石余、畠二五町余で一一六石余、小物成五石余、百姓屋敷一四一とある。

恒富村
つねどみむら

[現在地名]豊前市恒富

沓川くつがわ村の東に位置し、北は周防灘に面する。江戸時代の領主の変遷は今市いまいち村に同じ。恒留とも記される(正保国絵図ほか)。元和八年人畜改帳に村名がみえ給人分、家数二・人数三(うち百姓一)、馬一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報