忠岡村(読み)ただおかむら

日本歴史地名大系 「忠岡村」の解説

忠岡村
ただおかむら

[現在地名]忠岡町忠岡〈ひがし一―三丁目・みなみ一―三丁目・なか一―三丁目・きた一―三丁目〉・馬二―三丁目

槙尾まきお松尾まつお牛滝うしたき三川が合流した落合おちあい(大津川の別称)の河口左岸に位置し、同川を隔てて北は宇多大津うだおおつ(現泉大津市)に接する。紀州街道が集落部を縦断。小名に生帰しようき浜塚はまつか(「はますか」とも)道村どうむら(「どぐら」とも)下村しもむら西出にしで南出みなみでがある。中世は皇室領宇多庄に含まれたとみられる(泉大津市の→宇多庄。近世初期の実報院諸国旦那帳(熊野那智大社文書)に、熊野那智大社の御師実報院の旦那所の一つとして「たゝ岡」があげられ、当村とも推測される。

慶長九年(一六〇四)の検地高と思われる古検高は七八八石余(麻野家文書)、延宝七年(一六七九)検地帳(同文書)では一千一〇三石余に増加。天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の紀州根来・雑賀攻め以来、秀吉の直轄地となったとみられる。慶長二〇年大坂夏の陣による豊臣氏滅亡に伴って徳川幕府領となった。貞享三年(一六八六)武蔵岩槻藩領となったが正徳元年(一七一一)再び幕府領に復し、延享四年(一七四七)より、村高のうち一千一石余が一橋領、一一三石余が幕府領という相給となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報