忠山城跡(読み)ちゆうやまじようあと

日本歴史地名大系 「忠山城跡」の解説

忠山城跡
ちゆうやまじようあと

[現在地名]美保関町千酌・北浦

忠山(二九〇・五メートル)に築かれた中世の山城。忠山は「出雲国風土記」島根郡所載の墓野はかぬ山に比定され、北に稲積いなづみきた浦・千酌ちくみの浦々を見下ろす。千酌浦の才の神さいのかみ峠で枕木まくらぎ山に連なる。永禄一二年(一五六九)九月一五日の尼子勝久寄進状(日御碕神社文書)に「島根、忠山切渡」とみえる。尼子氏再興を図る遺臣山中鹿介幸盛・立原久綱らが尼子誠久の子勝久を擁して隠岐へ渡り、隠岐為清の助勢を得て当地に砦を構えたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報