菅浦(読み)すがうら

日本歴史地名大系 「菅浦」の解説

菅浦
すがうら

琵琶湖の最北端竹生ちくぶ(現東浅井郡びわ町)に向かって突き出た半島の西岸に立地する。半島の付根にある大浦おおうらとの鎌倉期以来の相論で知られる。その一千点を超える菅浦文書および絵図(菅浦与大浦下庄堺絵図として文書とともに国指定重要文化財)があり、惣自治の問題など中世史研究上重要な地域である。以下すべての記述は同文書により、個別文書名も必要に応じて示すにとどめる。

〔菅浦供御人〕

菅浦が天皇に供御(贄)を納める浦として成立したのは「天智天皇御宇」であるという所伝(永仁四年一一月蔵人所下文)は、鎌倉末期には浦の人々に定着していたとみられ、その源流を琵琶湖東岸の筑摩つくま御厨に求める説がある。同御厨は延久二年(一〇七〇)停止されるが、菅浦供御人は高倉天皇の時代(一一六八―七九)に自立したと伝える(建武二年一月菅浦供御人等申状案)。当供御人は御厨子所に属して近江国の日次供御の一部を負担し、御厨子所別当を内蔵頭が兼帯することが常なので内蔵寮にも所属、蔵人所供御人とも称された。貢進の負担の一方で、諸国の関渡津泊を自由に通行できるなどの権利を天皇の名で保障されたという。建保六年(一二一八)菅浦住人は供御人の数を増やそうとして認められなかったが、大浦との抗争のなかで建武二年(一三三五)に内蔵寮との間に鯉三〇喉・麦一石四斗余・大豆一石三斗余(以上鎌倉末と同様)、枇杷二駄を納めることになり、ほぼ全住人が供御人として認められる形となった。永仁六年(一二九八)惣追捕使熊谷直村の子とその弟が菅浦に打入り、濫妨するなどの狼藉を働いた際、蔵人所供御人の地位を盾にその圧迫をはねのけているのをはじめ、大浦との対立でも必要に応じて供御人の名で訴訟を優位に進めようとしている。嘉暦四年(一三二九)三月二一日の三条実治書状に菅浦惣官供御人等とあり、供御人集団の統轄者の存在を想定しうるが、菅浦の自治のあり方からみて階層的な組織はなかったとみるべきであろうか。ただし各本供御人には脇住がいて当初は供御人としての正式な特権をもっていなかったらしい。しかし脇住も鎌倉期以降史料上にみえ始め、建武の段階で七二宇の在家に住する全員が供御人となる。これは対外的な自治の力を高めたといえよう。

〔大浦庄菅浦〕

菅浦は、長久二年(一〇四一)に立券された大浦庄のうちに属し、のち大浦と争う日指ひさし諸河もろかわ(諸川)の地も含め、園城おんじよう円満えんまん院領であった。同庄雑掌が竹生島を崇敬するあまり菅浦を竹生島に寄進するが、竹生島が延暦寺檀那だんな院末であったため、菅浦の地と在家は本家を檀那院、領家を竹生島とする、その意味では庄園となった。

菅浦
すげうら

[現在地名]美保関町菅浦

日本海に面し、東は大谷おおたに(大床山・横井山)の嶺上により片江かたえ浦、西は大黒だいこく(巻谷山・沖トヂ山)柳谷やなぎだに(戦谷山)を境にきた浦、南は大黒山・大谷山を境に下宇部尾しもうべお村。南の大谷から大谷川が北流し、途中南西部のなか山から流れる中山川と合流し細田ほそだ川となり、菅浦湾に注ぐ。北浦から片江浦へ通称細田道が通る。「出雲国風土記」島根郡所載の須義すぎ浜は菅浦に、須義社は須義神社に比定されている。もとは北浦の端浦であったが、元禄六年(一六九三)北浦から六戸が移住したのが始まりと伝えられ、同一五年に北浦から独立した(県立図書館所蔵文書)。なお当地の墓石で最古の没年は天正二年(一五七四)で、須義神社の棟札には同五年のものがあることから、一六世紀後半には集落ができていたと考えられている。

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改訂新版 世界大百科事典 「菅浦」の意味・わかりやすい解説

菅浦 (すがうら)

琵琶湖北岸葛籠尾崎(つづらおざき)の西のつけ根にある中世以来の集落。現在の滋賀県長浜市の旧西浅井町菅浦。古くは〈すがのうら〉と呼んだ。湖岸の道がなかったころ他との交通はほとんど舟に頼ったため,陸の孤島といわれた。大正年間1200余点の中世文書が発見され,中世社会ことに〈惣〉の研究にきわめて重要な史料を提供することとなった。

 古代では湖北水運の一停泊地として《万葉集》にも歌われ,天皇に魚鳥を貢進する贄人(にえびと)集団が定着していたらしい。平安末期高倉天皇のときかと思われるが,住民の一部は内蔵寮(くらりよう)御厨子所(みずしどころ)供御人,蔵人所供御人の身分を得て漁労や湖上舟運等の特権を保証された。しかし菅浦自体は寺門円満院領大浦荘に含まれていたから,そこから独立するために,寺門との対抗上竹生島およびその本寺山門檀那院の支配に属することになった。以後鎌倉後期から200年弱の間,大浦荘と狭小な耕地日差,諸河の帰属をめぐり熾烈な争論を繰り返した。住民は日吉神人の号も有したが,1335年(建武2)には堅田浦の湖北進出に対抗するため,在家72宇がすべて供御人の称を得,コイ,ビワ,麦,大豆等の貢進を契約している。室町期には日野裏松家の所領ともなった。

 このように支配関係は複雑を極めたが,その下で惣として活発な自治活動を展開している。1346年(正平1・貞和2)の置文を初めとして,自検断や家の相続方法を規定した地下掟(じげおきて)がたびたび出された。山林・田畠等惣有財産も所有している。惣の機構としては年齢階梯制をとり,廿人乙名(おとな),中乙名,若衆の存在が確認される。また惣は子孫のために,大浦荘や領主との合戦の由来を詳細に書き残すなど歴史意識にも目覚めていた。しかし戦国時代になり湖北に浅井氏が台頭すると,その支配下に組みこまれた。浅井氏への年貢未進は借銭・借米として累積し,しだいに惣財政を圧迫する一方,惣の中に浅井氏と被官関係を結ぶ者も現れた。その結果ついに1568年(永禄11),惣は守護不入の自検断を放棄せざるをえなくなり,つづく織豊政権下ではさらに自治の縮小を余儀なくされた。

 近世では1602年(慶長7)の検地で,田畠合わせて71町6反5畝22歩,石高473石と決められ,51年(慶安4)膳所(ぜぜ)藩領に編入され幕末に至っている。自治の面では近世においても藩任命の代官および村方三役とは別に〈忠老役〉があり,村法,山法等の作成にも独自の力を行使し,ときには代官と対決するなど自治の伝統を強く残している。集落の東西入口には現在も四脚門を残し,ほぼ100軒に固定された家も屋号に中世のものを伝えるなど,歴史・民俗の宝庫ともいえよう。なお〈菅浦文書〉は重要文化財として,滋賀大学経済学部日本経済文化研究所史料館(現,経済学部付属史料館)に保管されている。
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百科事典マイペディア 「菅浦」の意味・わかりやすい解説

菅浦【すがうら】

近江国浅井(あざい)郡に成立した中世集落。現滋賀県西浅井町(合併し,現在は長浜市)菅浦一帯。琵琶湖北端の半島状地西部にあり,湖上に竹生島を望む。御厨子所(みずしどころ)や内蔵寮(くらりょう)に属して近江国の日次供御(ひなみくご)を一部負担し,漁労や自由通行の特権を保障された菅浦供御人の居住地。14世紀初頭の供御人は72人で供御は鯉・麦・大豆・枇杷。一方で菅浦は天台修験の霊場竹生島領であり,その本寺延暦寺檀那院を本家とする荘園的性格を持っていた。そのため菅浦を自荘内と主張する近江園城(おんじょう)寺円満院領大浦荘とは,13世紀後半頃から2世紀にわたる熾烈な境相論(さかいそうろん)を繰り返すことになる。この長い抗争の中で内部では強い自治意識が培われ,自検断権を持つ(そう)が成立,惣構成員を規制する置文(おきぶみ)を出し,惣有地を持ち,年貢の請け負いも行った。しかし戦国大名浅井氏の登場で自検断を放棄,近世になると自治の縮小を余儀なくされた。こうした菅浦の歴史を代々詳細に記録した1000点余の《菅浦文書》(重要文化財)が残る。
→関連項目大浦荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「菅浦」の解説

菅浦
すがうら

古くは「すがのうら」とも。近江国伊香郡にあった浦で,近世の菅浦村になる地域。琵琶湖の北端に突き出た葛籠尾(つづらお)半島の一部で,現在の滋賀県長浜市西浅井町にあたる。平安末期から住人は朝廷の供御人(くごにん)として特権を認められていた。村の鎮守の須賀神社に残された「菅浦文書」により,中世には惣(そう)とよばれる自治的な村落が存在したことが知られる。鎌倉後期から大浦荘からの惣村の独立を求めて200年にわたる抗争が続けられた。

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世界大百科事典(旧版)内の菅浦の言及

【菅浦】より

…琵琶湖北岸葛籠尾崎(つづらおざき)の西のつけ根にある中世以来の集落。現,滋賀県伊香郡西浅井町菅浦。古くは〈すがのうら〉と呼んだ。…

【境相論】より

… ところで境相論は,いったん紛争が惹起すると,一定の手順を踏んで決着をつけようとしても,結局は武力的衝突(実力行使)となるのが常であった。1449年(宝徳1)の近江菅浦と隣荘大浦の間での山論では,近郷の〈乙名〉の仲介で入会協定が取り結ばれるが,協定侵犯がもとで〈合戦〉状態になっている。それは70~80歳の老人さえ弓矢を取るほどの激しいものであった。…

【琵琶湖】より

…1070年(延久2)筑摩御厨は停止され,このころまでに漁労,狩猟だけでなく,魚鳥の商人,廻船人として,京都をはじめ広域的に遍歴,交易を行うようになっていた贄人たちを,天皇家は供御人とし,諸国の自由通行権を保証して再組織していく。勢多御厨の流れをくむ粟津橋本供御人,御雉所に統轄された鷹飼すなわち雉供御人,少しおくれて湖北の菅浦(すがうら)供御人が湖で活動するようになるが,一方,大寺社もまた海民を独自に組織すべく競合し,延暦寺は大津,坂本を中心に借上(かしあげ)として各地に広く活動した日吉神人(ひえじにん)を組織,園城寺も大津に進出する。さらに鴨社(賀茂御祖神社)は78年(承暦2)堅田網人を堅田御厨供祭人とし,賀茂社(賀茂別雷神社)も90年(寛治4)までに船木浜に本拠を置き,安曇川に簗をかけた人々を安曇川御厨供祭人とした。…

※「菅浦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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