応賀寺(読み)おうがじ

日本歴史地名大系 「応賀寺」の解説

応賀寺
おうがじ

[現在地名]新居町中之郷

鏡光山と号し、高野山真言宗。本尊薬師如来。寺伝によると、神亀年間(七二四―七二九)聖武天皇の勅命を受けた行基が諸国巡錫の折に創建したと伝える(寛文五年「遠州中之郷村鏡光山応賀寺」応賀寺文書、以下応賀寺文書は省略)。寺蔵の鰐口には永享五年(一四三三)三月六日付で「遠州吉美庄大賀寺」とある。また当寺の毘沙門天像は、胎内願文によると文永七年(一二七〇)閏九月二五日に橋本はしもと宿の長者妙相が造立したというが、この願文は検討の余地があるとされる。天正一七年(一五八九)四月、吉美きび庄応賀寺領の検地を受け、応賀寺領分として田畑四町二反余、屋敷一千二八三坪が検出された(同月一二日遠州淵郡吉美庄応賀寺領御縄打水帳)。慶長八年(一六〇三)八月二〇日、徳川家康より寺領三八石を与えられた(徳川家康朱印状写)。一六世紀末池田輝政が当地を支配していた頃には寺領八〇石を有したが、村内の与十・右近右衛門の二人が諸役のほか陣夫役を肩代りしたことから両名に四二石を与え、残り三八石が寺領となった(慶長一七年二月一六日応賀寺領之内公田之事)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報