志登村(読み)しとむら

日本歴史地名大系 「志登村」の解説

志登村
しとむら

[現在地名]前原市志登

池田いけだ村の北、雷山らいざん川と瑞梅寺ずいばいじ川の間に位置する。志登神社鎮座弘安九年(一二八六)一〇月二八日の関東下知状案(詫摩文書/鎌倉遺文二一、以下中世の記述では詫摩文書は集合文書名を省略)によれば、大友氏の庶流である詫摩別当次郎時秀法師が弘安の役の恩賞として前年に起きた岩門合戦で討たれた武藤景資跡の「筑前国志登社地頭職」を与えられた。同一一年四月二五日、沙弥寂尊(詫摩時秀)は志登社地頭職を舎弟分を除き太郎頼秀に譲り、同日付で「くまつるわさ」(熊鶴冠者)に「しとのやしろにた四丁」を譲った(「沙弥寂尊譲状案」鎌二二)。正応六年(一二九三)九月一五日の詫摩頼秀所領配分状案(鎌二四)には「志登社内又三郎四町坪々」がみえる。配分状案の端裏書には「志登社内板持知行分坪付案」とあり、板持いたもちに一部所領が及んでいたとみられる。延慶二年(一三〇九)正月二〇日の詫摩貞重譲状案(鎌三一)では「筑前国志登社田地」などが嫡子幸一丸に譲与されている。貞重は弘安一一年に譲りを受けた惣領寂意(頼秀)の弟熊鶴冠者である。正和五年(一三一六)三月一七日の沙弥寂意詫摩頼秀譲状案(鎌三三)では、頼秀が孫いちハう(一房)に志登社地頭・同職等を譲渡している。文保二年(一三一八)一二月一二日の鎮西御教書案(鎌三五)は志登社雑掌教賢と地頭詫摩氏との年貢をめぐる相論を裁許したもので、正和四年以前は詫摩氏の年貢皆済が認められた。嘉暦二年(一三二七)八月一七日には下地を中分することで和与がなされた。志登社雑掌成朝と吉富よしとみ名の一分地頭詫摩豊前権守親政法師寂雄との争いは寂雄知行分田地五町二段を中分し、上尾北一町・江北五段・倉本四段・屋敷(号力丸)一所を領家方に避渡し(同月二九日「鎮西下知状」鎌三八)、雑掌成朝と吉富名地頭詫摩一房丸との争いは提一町・府田八段・江北五段・柳五段を同じく領家方に渡すことなどで解決した(同年九月二〇日「鎮西下知状」鎌三八)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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