引越村(読み)ひつこしむら

日本歴史地名大系 「引越村」の解説

引越村
ひつこしむら

[現在地名]南区六ッ川むつかわ一―四丁目・永田山王台ながたさんのうだい永田南ながたみなみ一丁目・中里なかざと

東は山を隔てて弘明寺ぐみようじ村、西は山を境に相模国鎌倉郡平戸ひらど(現戸塚区)谷中やなか(現港南区)、南も山を境に中里村・別所べつしよ村、北は永田村。村名の由来は多々久たたく(当村のほかに弘明寺・中里・別所・最戸・久保)が分村したとき、村民が引越して一村をなしたという(風土記稿)

「風土記稿」によれば天正一九年(一五九一)検地があったというので、村の起立はその頃か。近世は初め幕府直轄領。元禄四年(一六九一)に村高のうち八石が江戸湯島聖堂領となった。田園簿によれば高一五五石余、うち田一二六石余・畑二八石余、ほかに新田見取場二石余、新畑見取場二石余。

引越村
ひつこしむら

[現在地名]松尾町引越

谷津やつ村の北西方にある。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高五四石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では旗本新庄領。以後幕末まで同領(旧高旧領取調帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報