府内城跡(読み)ふないじようあと

日本歴史地名大系 「府内城跡」の解説

府内城跡
ふないじようあと

[現在地名]大分市荷揚町・大手町三丁目・府内町三丁目

大分川が北西に流れて別府湾に流入する辺りの旧河口部西側にあった江戸時代の平城。県指定史跡。古くは荷揚にあげ城、雅名を城・白雉はくち城と称した(「雉城雑誌」など)

〔創建と拡張〕

文禄三年(一五九四)早川長敏が府内に入ったが、家島いえじまに仮館を構えてのち大友館に移ったという。領知高は大分郡のうちで一万三千石(一万一千石・一万二千石・一万七千石説あり)、蔵入地預四万七千石(四万八千石説あり)とされるが、同五年閏七月一二日の大地震を経た翌慶長二年(一五九七)木付きつき(杵築)に移封された。続いて福原直高が臼杵うすきから一二万石を領して同館に入った。このとき豊臣秀吉から「豊府ハ国中ノ咽喉也、汝要害ヲ見立改築スベキノ由」命じられたという(雉城雑誌)。直高は家臣生島新助を供に上野の飯盛うえののいいもり塚に登って府内を見渡し、北方の大分川河口西部の船荷が積下ろしされている荷落におろしとよばれる地を城地に選んだ。城は八町四方を本丸・二の丸・三の丸に区画し、大分郡内から巨木、土佐国から精木を、さらに高崎たかさき山や笠縫かさぬい島から巨石を運ばせた。三の丸となる地にあった大友氏建立の同慈どうじ寺・宝殿は残された。途中朝鮮出兵で工事は中断したが、同四年には二の丸の東三重櫓、三の丸の家臣屋敷も大半完成し、城の地も荷揚と改め、新城を荷揚城と命名したという。同年直高は除封され、早川長敏が再封されたが関ヶ原の戦で西軍について滅び、同六年三月高田藩主竹中重利が二万石で入城した。重利は徳川家康の許可を得て城の増築に着手し、石垣・堀を造築した。その際に肥後熊本の加藤清正に要請して石工数十人を派遣させ、大坂の大工、山城伏見ふしみの瓦師もよんだと伝える。同七年中には天守・櫓・武家屋敷も完成し、城下町の建設に取りかかった。以後城名を府内城とした(以上「豊陽志」「雉城雑誌」「豊府紀聞」)

〔構成と施設〕

竹中時代の慶長府内絵図、寛永一一年(一六三四)入部した日根野吉明在封中の正保府内城絵図により、およその構成が知られる。本丸、東の丸・西の丸と両丸をつなぐ出合曲輪からなる二の丸、北の丸(山里)と北の小丸からなる北の丸、南から西を囲む三の丸がある。本丸と二の丸・北の丸との間は堀、二の丸と三の丸の間に内堀がある。北側の砂洲中島なかしまから東にかけて堤(帯曲輪)を築いて本丸と河口水面とを分けており、中島の北側は潮入で八棟の船蔵があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報