府中村(読み)ふちゆうむら

日本歴史地名大系 「府中村」の解説

府中村
ふちゆうむら

[現在地名]府中町茂陰もかげ一―二丁目・千代せんだい新地しんち緑ヶ丘みどりがおか柳ヶ丘やなぎがおか青崎南あおさきみなみ青崎中あおさきなか青崎東あおさきひがし桃山ももやま一―二丁目・浜田はまだ一―三丁目・鹿籠こごもり一―二丁目・桜ヶ丘さくらがおか清水ヶ丘しみずがおか・みくまり一―三丁目・城ヶ丘じようがおか石井城いしいじよう一―二丁目・鶴江つるえ一―二丁目・本町ほんまち一―五丁目・大須おおす一―四丁目・山田やまだ一―四丁目・瀬戸せとハイム一―二丁目・宮の町みやのまち一―五丁目・浜田本町はまだほんまち大通おおどおり一―三丁目・八幡やはた一―四丁目

鎌倉時代末まで海に面していた。正応二年(一二八九)正月二三日付沙弥某譲状(田所文書)符中ふちゆうの田畠として「一所田畠六反」とあり「□□西大道者西□ 至海辺 早馬立」と記される。大道おおみち多家たけ神社前から北に延びる古山陽道と推定され、早馬立はやうまたちはこの大道に沿った現鶴江二丁目付近をさすので(芸藩通志)、古山陽道からさほど遠くない西に海岸線があったことがわかる。このことは鶴江、おき(現宮の町一―二丁目・大通三丁目)大崎おおさき(宮の町一丁目・同三丁目)・浜田(浜田本町・浜田一―三丁目)などの地名からも裏付けられる。

道隆どうりゆう寺近辺から天平期(七二九―七四九)の軒丸瓦が出土し、下岡田しもおかだ遺跡が奈良後期ないし平安初期の官衙跡とみられるなど、当地は古くから開け、安芸国府が当初からここにあったかどうかは別としても、平安時代にあったことは確認できる。海陸交通の要地であり、安芸郡衙の所在地もここ以外に適地はない。

府中村
ふちゆうむら

[現在地名]七尾市本府中町もとふちゆうまち山王町さんのうまち上府中町かみふちゆうまち川原町かわらまち郡町こおりまちそで江町えちよう神明町しんめいちよう大手町おおてまち桧物町ひものまち相生町あいおいちよう塗師町ぬしまち今町いままち鍛冶町かじまち御祓町みそぎちよう

石動せきどう山系を水源とする御祓川・大谷おおたに川の沖積作用によってつくられた平地に位置し、所口ところぐち町の南から東に広がる。東側を同川が北流して七尾南湾に注ぎ、内浦街道がほぼ南北に通る。中世能登国守護所が置かれた府中の中心地であった。のちに府中から移った守護畠山氏の居城七尾城の城下を江戸時代本七尾もとななおといったが、寛文六年(一六六六)の上使御案内者心得(鹿島郡誌)によれば、本七尾の惣名を府中村と称した。

天正一〇年(一五八二)一月二〇日の前田利家印判状写(「能登中居鋳物師伝書」加越能文庫)に「七尾府中において城を築」とある。小丸山こまるやま城の城下町は所口・府中両村の地を割いて営まれたといわれ、府中町はもと当村の地内とされる(能登志徴)

府中村
ふちゆうむら

[現在地名]和泉市府中町・府中町一―八丁目・肥子ひこ町一―二丁目・くち町・伯太はかた町一―二丁目・池上いけがみ町・芦部あしべ

黒鳥くろどり村の西、槙尾まきお川の右岸にある。熊野街道(小栗街道)が通り、当地で同街道から大津街道・槙尾街道・牛滝うしたき街道が分岐する交通の要地。古代には和泉地方の中心地であったとみられ、「日本書紀」允恭天皇八年条などにみえる茅渟ちぬ宮、「続日本紀」霊亀二年(七一六)三月二七日条にみえる珍努ちぬ宮は当地付近にあったのではないかと考えられている。また茅渟(珍)県主との関係も推測される(→茅渟。天平宝字元年(七五七)和泉国が成立してからは、和泉国府の所在地であった。当地の式内社泉井上いずみいのうえ神社の境内には、和泉国名の由来となったという清水がある。また国分寺に準じて官寺の扱いを受けた和泉寺もあった。地名は国府が所在したことに由来する。なお「続日本紀」の聖武天皇の行幸記事にみえる竹原井たかはらい頓宮を当地に比定する説があるが(和泉市史)、同頓宮は現柏原市域にあったもので誤りである。明徳の乱の功績により和泉国守護職を与えられた大内義弘は、明徳三年(一三九二)二月、山内義理を討つため和泉堺を発ち、「当国ノ府中」に陣取っている。

府中村
ふちゆうむら

[現在地名]和歌山市府中

名草なくさ郡に属し、直川のうがわ村の東にある。村の中央部を淡島街道(旧南海道)が東西に通る。南部をろつ用水の一流が西流し、北部山中より南西に流れるたか川が田屋たや・直川村境で合流する。紀伊国府の地と伝えられる。古代直川郷(和名抄)の地とされ、村域を中心とする地域には条里制の遺構がみられる。平安末期以降は国衙領田屋郷の内であったと思われる。永仁六年(一二九八)二月六日付の田屋安楽寺の坪付注文写(森家文書)に「山四至アリ、八幡宮敷地等以上五段半也、然処ニ、かわらの神御社艮方三町山魏之フモト、嶋田殿ノ兄四郎左衛門尉屋敷也、ホウラクカ尾乾方マテ」とある。この八幡宮は当地の八幡宮をさすと思われ、右史料は府中村の地を表すと考えられる。

「明徳記」によると、明徳の乱の際、大野おおの(現海南市)を本拠とする守護山名義理を大内義弘が攻撃したが、義弘は府中に布陣している。

府中村
ふちゆうむら

[現在地名]坂出市府中町

現坂出市の南東端に位置し、山東麓およびその東方一帯を占める広域の村。あや川がほぼ村の中央を流れる。阿野あや郡南に属し、北は同郡北のかも村・氏部うじべ村など、東は同郡南の国分こくぶ村・新名しんみよう(現綾歌郡国分寺町)、南は同すえ村・滝宮たきのみや(現同郡綾南町)。城山山頂一帯には古代の山城の遺構がある(→城山。律令制下には阿野郡甲智こうち(和名抄)の地で、官道南海道の河内こうち(「延喜式」兵部省では駅馬四疋)も当地に比定される。また地名府中が示すように讃岐国府の所在地で、官衙跡は本村ほんむらにある。

慶長一七年(一六一二)一二月二九日の生駒正俊宛行状(遠山家文書)によれば、府中の一〇〇石が遠山平兵衛に宛行われている。

府中村
こうむら

[現在地名]徳島市国府町府中こくふちようこう

和田わだ村の西にあり、南東は早淵はやぶち村。ほぼ中央部を伊予街道が東西に通る。村名はこの一帯に阿波国府が置かれていたことに由来し、「阿波志」には古くは国府に作るとある。寛文四年(一六六四)までは以西いさい郡に属した。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「かう村」とみえる。正保国絵図では高四〇一石余。寛文四年の郷村高辻帳では田方一九二石余・畠方二〇八石余。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では一石余が蔵入地。文化三年(一八〇六)の名東郡中地高物成調子帳(四国大学凌霄文庫蔵)によれば早淵組に属し、高七六八石余、うち蔵入分五八三石余・給知分一八五石余。同一〇年の高都帳によると高八二四石余。「阿波志」によれば陸田六反余。文政四年(一八二一)には高八二四石余、うち四四七石余が蔵入分、三七七石余が蜂須賀駿河ら六名の給知(「名東名西両郡高家数等指上帳」国府町史資料)

府中村
ふちゆうむら

[現在地名]国分市府中・府中町・中央ちゆうおう一丁目・同三丁目・野口北のぐちきた向花町むけちよう

向花村の南西、手籠てご川・天降あもり川の左岸に位置し、北東方に離れた新町しんまち村と姫城ひめぎ村との間、手籠川の右岸に飛地がある。地名は古代の大隅国府に由来するといわれ、当地に鎮座する祓戸はらえど神社は古く守公もりきみ(守君)神社と称し、大隅国の総社であったとの伝承を有する。近世には国分郷に属した。嘉吉元年(一四四一)一一月一一日、鎌田道賢は「国府まくさたの畠伍段」を自身の後生菩提のために清水の楞厳きよみずのりようごん寺に寄進している(「鎌田道賢寄進状」旧記雑録)。この「まくさた」は現在の府中の字馬草田まぐさだが遺称地と思われる。なお寄進地は道賢が社家桑幡田方から質地(本物五貫文)として取得した地で、本主桑幡氏が質受をした場合には本物の五貫文で別田畠を確保して、忌日の弔を行ってもらいたいとの付記がある。

府中村
ふちゆうむら

[現在地名]小浜市府中

東南は和久里わくり村と境し、北は西流するきた川を挟んで高塚たかつか村。西南にはみなみ川が西北流し、両河川による沖積平野の中心に開けた農村。東町ひがしまち西町にしまち北町きたまち南町みなみまちの字名から、かつては町場があったと思われる。東側一帯には条里制遺構がよく残り、高塚との境には一〇世紀頃の住居跡が出ている。

地名は古代に国府の所在したことによるといい(若狭国志)、長禄二年(一四五八)一一月一三日付弥四郎田地売寄進状(長源寺文書)に「売主若州苻中住人 弥四郎」とある。

府中村
ふちゆうむら

[現在地名]垂井町府中

垂井村の北、あい川支流の梅谷うめたに川・大滝おおたき川の流域に立地。府中という地名を含め諸説一致して当地を美濃国府の推定地とする。文明五年(一四七三)五月二〇日垂井を訪ねた一条兼良は「民安寺といふ律院」に泊まっている(藤川の記)。民安寺は廃絶しているが、その跡地には至徳三年(一三八六)八月銘の石灯籠の竿だけが残っていた(近年数百メートル南東に移す)。また同寺はかつて垂井の御所野ごしよの付近にあったという。大永二年(一五二二)六月八日書写の「聞名集」巻二の奥書に「濃州不破郡府中談義所」とあるが、小字名の談義所だんぎしよはこれに関連するか。天正一〇年(一五八二)六月日付で南宮なんぐう地下ならびに府中に織田信雄禁制(南宮神社文書)が発せられている。

府中村
ふちゆうむら

[現在地名]三芳村府中

現三芳村の南西端に位置し、西方を平久里へぐり川が流れる。房総往還が通る。古代の安房国府所在地と推定されており、中世にも安房の政治的中心地であったとみられる。慶長二年(一五九七)一一月二〇日の里見義康寺領宛行状写(宝珠院文書)に地内の宝珠ほうじゆ院領四六石の所在地としてみえる「正木村之内東国府」がのちの当村で、同年の安房国検地高目録ではきた之郡正木まさき(現館山市)のうちに含められている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報