平松村(読み)ひらまつむら

日本歴史地名大系 「平松村」の解説

平松村
ひらまつむら

[現在地名]姶良町平松・池島町いけじままち永池町ながいけまち西姶良にしあいら一―四丁目

おもい川流域の扇状地から白銀しろがぬ山にかけて位置し、東は帖佐ちようさ西餅田にしもちだ村、南東は脇元わきもと村。南西の薩摩国吉田よしだ宮之浦みやのうら(現吉田町)からの大口筋は白銀坂で当村と脇元村との境に入る。「三国名勝図会」は白銀坂について「薩隅の大道にて、本府より行は、降坂なり、坂の長さ一里に近し、(中略)坂中に薩隅二州の境木あり」と記す。江戸時代は初め帖佐郷に属したが、元文二年(一七三七)の越前島津家(重富島津氏)再興に伴って、翌年重富島津氏の私領重富しげとみ郷が創設された際に同郷の所属となった。重富郷五ヵ村の中心で、麓の領主仮屋周辺に家中士の屋敷が配置された。領主仮屋は平松城(現重富小学校)を使用し、明治初年に家中士一七六戸があった(姶良町郷土誌)

中世は蒲生かもう院のうちにあった。長禄三年(一四五九)蒲生宣清は島津忠国により給黎きいれ(現喜入町)に転封され、平松は渋谷氏の支配になった時期がある(島津国史・姶良町郷土誌)

平松村
ひらまつむら

[現在地名]姫路市大津区平松おおつくひらまつ

西汐入にししおいり川を挟んで長松ながまつ村の西に位置し、西は大津茂おおつも川を境に大江島おおえしま村。揖東いつとう郡に属する。中世は福井ふくい庄に含まれた。永仁七年(一二九九)三月日の福井庄年貢注進状(輯古帖)に平松とみえ、当地の西寄樋守の費用として一石二斗が下されている。長享元年(一四八七)と推定される福井庄村名注文(吉川家文書)に福井庄二八ヵ村の一として平松村がみえる。天文五年(一五三六)四月二五日、当村の商人がいかるが(現太子町)内で周世某に殺害されたため、同庄宿しゆく(現龍野市)の百姓が福井庄で捕らえられるという事件があった(「鵤庄引付」斑鳩寺文書)

平松村
ひらまつむら

[現在地名]飯岡町平松

行内ぎようち村の西にあり、南は海に面する。集落は浜通り沿いに営まれる。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。元禄二年(一六八九)の田方・畑方詰帳(伊藤家文書)では田三町一反余・畑屋敷五町八反余。同一三年頃の下総国各村級分では高一六八石余で幕府領のほか旗本大久保・片桐二氏の相給。宝永八年(一七一一)の反別改水帳(伊藤家文書)では田三町余・畑屋敷八町一反余で、ほかに椿つばき新田への出作が多い。天保一四年(一八四三)の商人書上帳(村明細帳の研究)では高一六一石余のうち浦浜高六石、与力三氏の給知のほか勝田氏当分預所、農業のみを生業とする者は家数三八・人数一六五、行内村との入会浜で漁業する者ならびに浜方商い渡世の者は家数一八(漁業のみ九)・人数七九、商いは醤油造・質屋・荒物・木綿綿取替え・穀物・餅菓子・蕎麦・商人宿・油絞りなど、春秋の漁期には六五人ほどの日雇を抱えるという。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]甲西町平松・中央ちゆうおう

柑子袋こうじぶくろ村の東に位置し、北を野洲やす川が西流し、南は阿星あぼし(六九三メートル)に続く山地。その麓には国指定天然記念物のウツクシマツ自生地で知られる美松うつくしまつ(二二七・三メートル)があり、周辺には溜池が多い。村の中ほどを貫通する東海道に沿って街村をなす。「興福寺官務牒疏」に夏見なつみ郷に所在した光明こうみよう(現廃寺)の別院尊光そんこう(現廃寺)の所在地として平松がみえる。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に平松五七一石余とあり、家康の在京賄料に充てられた。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]豊岡村平松

天竜川左岸にあり、北は神増かんぞ村。永禄一一年(一五六八)徳川家康が匂坂六郎五郎に安堵した本知行のなかに、平松などのうち四〇貫文が含まれていた(同年一二月二〇日「徳川家康判物」匂坂文書)。慶長九年(一六〇四)伊奈忠次により検地が行われ、高四三石余・反別四町三反余、うち一二石余が川成引。別に向笠原むかさはらに平松・掛下かけした両村の入作地(現磐田市)二九石余があった(元文四年「平松村差出明細帳」水野家文書)正保郷帳には村名の記載なし。年貢は皆金納で、享保七年(一七二二)より定免法。諸役・小物成には定納舟役と高掛三役などがあった。延享四年(一七四七)に改め検地があり、宝暦八年(一七五八)の村鑑覚日記帳(水野家文書)によると本田・新田合計高六七石余。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]両津市平松

南は藤の実ふじのみ川で北松きたまつさき村、北は大杉おおすぎ川で浦川うらがわ村。東は両津湾に開ける。集落は段丘下に列村形態をなす。西に平松戴ひらまついただき(六五二メートル)があり、その山系の断層が海中に延び、善法寺ぜんぽうじ岩・中瀬なかせおきなどの巨岩暗礁も多く、好漁場をなす。海浜に製塩遺跡を示す釜屋の上かまやのうえの地名がある。もとは浦川村の出村と伝える。慶安二年(一六四九)の歌見村石直帳(歌見区有)に、歌見うたみへの出作として平松分四石五斗余が書上げられる。元禄七年(一六九四)検地帳(平松区有)には垣ノ内の地名二筆があり、田一町四反余・畑三町九反余・屋敷二反余。名請人一五人、うち屋敷持八人。御林は中山に一ヵ所。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]湖東町平松

中一色なかいつしき村の東に位置し、現集落の北側に平松城跡がある。平松城は佐々木氏の家臣中井新之丞が在城したが、永禄三年(一五六〇)の野良田合戦で浅井氏に攻められ、中井氏は戦死。その後織田信長代官の日根野氏が在城したと伝える。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ高六〇〇石余。文久二年(一八六二)上知。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男一五七・女一六二、寺社方男三。文化二年(一八〇五)の村明細帳写(押立神社文書)によれば田方二八町七反余・畑方一町五反余、男一七二・女一五一、牛二〇、家数七四・土蔵三〇・寺二・道場一・氏神一、大工一・鍛冶屋二・酒屋一。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]落合町平松

野川のがわ村の北にあり、旭川東岸の平野部と、東方にそびえる笹向ささぶき(四一九メートル)の西麓よりなる。北は中島なかしま(現久世町)。北端部を目木めき川が西流、中島村と接する地で旭川に注ぐ。正保郷帳では田高一六四石余・畑高一四石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳によると村位は中、改出高四四石余・開高二斗余。「作陽誌」では家数二五・人数一一六。津山藩森家断絶後の領主の変遷は下見しもみ村に同じ。平松神社は国常立尊を祭神とし、同書に載る明見社が同社にあたる。明治維新後現社名に改称(美作国神社資料)、棟札によると元文三年(一七三八)・享和元年(一八〇一)社殿の改築がなされている。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]浜松市平松町

呉松くれまつ村の南、浜名湖東岸庄内しようない半島の東部に位置する。寛永二年(一六二五)には旗本大沢領(記録御用所本古文書)。正保郷帳では高八〇石余、田五四石余・畑二五石余。領主の変遷は堀江ほりえ村と同じ。浜名湖岸に「汐浜」の小字があり、かつて塩が生産されていたことを示唆するが、地租改正に伴って作成された平松村地引絵図(渥美家蔵)には塩田は描かれないので、近代初頭までに製塩は廃業したものとみられる。明治三年(一八七〇)の氏子人別邪宗門改帳(渥美家文書)では家数一〇六・人数五一五。なお同改帳は堀江藩が行った独特の廃仏政策である自葬祭伺済之村々邪宗門改方規則(藤田家文書)によるものである。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]松任市平松町

倉光くらみつ村の南に位置し、南は剣崎けんざき村。慶長一二年(一六〇七)六月の中村用水普請人夫ニ付達書(松任町史)に「ひら松村」とみえる。正保郷帳では当村と剣崎村が連記され、二村分の高二千二五九石余、田方一四五町五反余・畑方五町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印は両村別々に出されており、当村の高一千二四七石、免五ツ四歩、小物成はなし(「村御印」新松任町史)。寛文年間の家高数一〇・百姓数四〇(高免付給人帳)。用水は中村なかむら用水・山島やまじま用水を利用。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]奈良市平松町

宝来ほうらい村東南に所在。西大寺田園目録に「添下郡右京二条四坊十五坪内三段、畠、平松ニアリ」の記事がある。慶長郷帳の村高六八六・六七四石のうち六一〇・九一石は旗本石河貞政領、七五・七六四石は幕府領(代官大久保長安)の相給村。幕府領平松村は元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、のち同藩の二割半無地高増政策などにより九五・〇九二石となる。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]亀岡市本梅ほんめ町平松

半国はんごく山の東麓にあり、北は中野なかの村、東は猪倉いのくら村、南は井手いで村。村内の東部を本梅川が流れる。中野・平松・井手三村は山麓に沿って南北に続き、中世は三村を併せてかみ村と称した(丹波志桑船記)

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば高四四一石、戸数六七、園部藩領。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]宇都宮市平松町・平松本町ひらまつほんちよう

北は石井いしい村への道を境に宿郷しゆくごう村、東はみね村・石井村、西は用水堀を隔て簗瀬やなせ村。近世を通じて宇都宮藩領。慶安郷帳に田方一七四石余・畑方一二九石余とある。元禄九年(一六九六)宇都宮宿大助郷一七ヵ村の一つとなる(「宇都宮宿助郷帳」上野虎四郎文書)。正徳年間(一七一一―一六)の宇都宮領村々諸割物高付覚帳(五月女久五文書)では青草勤高三四八石余、用水川除普請往還人馬勤高も同じ、縄莚藁猫太渋柿等納高一八七石余。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]春日町平松

北を黒井くろい川が流れ、東は村。丹後への道が通る。「丹波志」は西平松・東平松を枝村とする。領主の変遷は野村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高一九〇石余・畠高三七石余、芝山・日損所あり。天和二年(一六八二)より野山役一石余を旗本水野家に米納(鶴牧藩大概帳)。「丹波志」によると今高二七一石余、家数五〇。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]飯能市平松

小久保こくぼ村の東に位置し、東は川崎かわさき村。村内を中山なかやま村から川越への道が通る。加治かじ領に属した(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、高は田方九〇石余・畑方八一石余(ただし都合高は一六一石余とある)、幕府領。寛文八年(一六六八)検地があり(風土記稿)元禄郷帳では高二二四石余。国立史料館本元禄郷帳では旗本鈴木領。

平松村
ひらまつむら

[現在地名]南光町平松

佐用郡に属し、東徳久ひがしとくさ村の北、千種ちくさ川左岸の谷間のやや丘陵状に開けた小盆地に立地する。慶長国絵図に平松とみえる。江戸期の領主の変遷は林崎はやしさき村に同じ。正保郷帳では田方一一六石余・畠方六三石余、旱損所、芝山有、小松はへ有と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android